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引っ越してきた日のことだ。
大家は鍵を渡しながら、妙なことを言った。
「隣の部屋の方は、とても静かですから安心してくださいね」
安心、という言い方が少し引っかかった。
私の部屋は305号室。
隣は306号室。
表札は出ていない。
ポストには何も入っていない。
だが、夜になると、壁の向こうから微かな音がする。
カリ、カリ、カリ。
何かを引っ掻くような音。
最初はネズミかと思った。
しかし音は、壁の一点から規則正しく響く。
まるで、同じ場所をずっと削っているみたいに。
三日目の夜。
ついに私は壁を叩いた。
「すみません、ちょっと音が……」
音が止まる。
沈黙。
ほっと息をついた、その時。
コン。
壁の向こうから、叩き返された。
一回だけ。
私は固まる。
恐る恐る、もう一度叩く。
コン、コン。
向こうも返す。
コン、コン。
……会話のようだ。
なぜか胸がざわつく。
私は、三回叩いてみた。
コン、コン、コン。
少し間があって。
コン、コン、コン。
正確に同じ回数。
その夜から、奇妙なやり取りが始まった。
一回叩けば一回。
二回なら二回。
決して間違えない。
一週間後。
管理会社に、隣人について聞いてみた。
「ああ、306号室は空室ですよ」
「え?」
「半年ほど前から、ずっと」
背中が冷たくなる。
「でも、音がするんです」
電話口の声は少し黙り込んだ。
「……前の入居者も、同じことを言っていました」
それ以上は教えてくれなかった。
その夜。
私は壁に耳を当てた。
静かだ。
しばらくして、カリ、カリ、と音が始まる。
思い切って叫んだ。
「誰かいるんですか?」
音が止まる。
長い沈黙。
そして——
コン。
一回だけ。
私は震える手で、ゆっくり三回叩いた。
コン、コン、コン。
返事はない。
代わりに、壁紙がわずかに膨らんだ。
内側から、押されるように。
そこに、指の形が浮かぶ。
五本。
ゆっくりと、外へ向かって押している。
私は後ずさる。
壁が、ミシ、と音を立てる。
ひびが走る。
その隙間から、暗闇が覗く。
黒い穴の奥に——
目。
こちらを見ている。
瞬きもせず。
壁が裂けた。
私は悲鳴を上げる。
だが次の瞬間、視界がぐらりと歪む。
気づくと、私は狭い暗闇の中にいた。
息が詰まるほど狭い。
手を伸ばすと、すぐ前に壁。
向こうから、生活音が聞こえる。
テレビの音。水の流れる音。
そして、誰かの足音。
壁の向こうの“誰か”が、近づく。
コン。
一回、叩く。
私は震えながら、叩き返す。
コン。
向こうの人が、声を上げる。
「すみません、ちょっと音が……」
私は、にやりと笑う。
そして、三回叩く。
コン、コン、コン。