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第6話 凪のため
目を覚ます気配は、まだない。
規則的な呼吸。
微かに上下する胸。
ベッドの上で穏やかに眠る凪を、少しのあいだ見下ろす。
倒れた時に出来たであろうかすり傷だけが、さっきまでの異常をかろうじて残していた。
「……」
呼吸は安定しているし、
脈も問題ない。
衝動のあと、凪はこうなる。
しばらくは起きない。
⎯⎯⎯その間に、俺はやることがある。
視線を外して、部屋を出る準備をする。
戸締りをしっかりして、
鍵を手に取る。
ドアの前で、ほんの一瞬だけ足を止めて。
「……すぐ戻るから」
誰に言うでもなく、小さく呟いた。
扉を閉める。
鍵の音が、やけに大きく響いた。
外に出ると、すっかり昼の空気だった。
さっきまでの空気と何も変わらない。
歩きながら、頭の中で状況整理をする。
起きたとき。
凪は、どこまで覚えているだろうか。
いや。
覚えていないはずだ。
今まで通りなら。
衝動の前後は、記憶が抜け落ちる。
今回も同じなら⎯⎯⎯
「…大丈夫だ」
自分に言い聞かせるように。
それ以上は、なにも考えない。
古本屋の前で足を止める。
ガラス越しに中を見て、
そのまま扉を開けた。
カラン、と音が鳴る。
店主が顔を上げた。
「お、久遠くんか」
少し視線を動かして、奥を見る。
「…あれ、凪のヤツ、もうすぐシフトなんだけど一緒じゃないのか?」
時間は、ちょうどそのくらい。
「今日は休ませます」
短く答える。
店主が眉をひそめた。
「え、大丈夫かあいつ」
「体調崩してて。しばらくは…その、来れないと思います」
「新しく高収入バイトでも見つけたんじゃないだろうなあ? 」
「違いますよ」
間を置かずに返すと、店主は「はは」と小さく笑った。
「まあしょうがないな。そもそも客なんて来ないし」
苦笑するように肩をすくめる。
「でも、いないといないで…逆に静かすぎて変な感じだな」
「すみません」
「いやいや、久遠くんが謝ることじゃねえけどさ」
軽く手を振られる。
「まあ、久遠くんだけでもたまには顔見せに来てくれたらおっちゃんは喜ぶぜ」
「はい。また来ます」
「おう」
それ以上は何も言わない。
用件は、済んだ。
店を出る。
大学に着く頃には、頭の中はもう切り替わっていた。
研究室のドアを開ける。
中はいつも通りの空気だ。
パソコンの音。
紙をめくる音。
「お、久遠」
振り返ったのは、同期の小林 斗真。
「どこ行ってた?教授がさっき久遠のこと探してたけど」
「ちょっと外」
「相変わらず自由すぎな」
小林が軽く背中を叩いてくる。
席に戻り、資料を広げる。
「そういやさ」
小林がふと思い出したように言う。
「うちのハムスターが赤ちゃん産んでさー」
「何匹?」
「7匹も。でさー、1匹引き取らね?」
「遠慮しとく」
間髪入れずに答えると、小林が笑った。
「はやいて」
「もう家は定員オーバーです」
「え、なんか飼ってたっけ」
少しだけ考える。
「…猫、みたいなもん」
「は?」
小林が顔をしかめる。
「アパートだろお前」
「いや猫じゃないけど」
「どゆことだよ」
肩をすくめて、小林は笑った。
「まあいいや。気が向いたら言えよー」
「言わない」
「冷てーな」
作業に戻る。
資料をまとめて、
発表用の構成を整える。
視界の端で、スマホが光った気がした。
手を止めて確認する。
何も来ていなかった。
「……」
そのまま画面を伏せる。
今は考える必要はない。
大丈夫だ。
「よし、今日はこの辺でいいか」
小林が伸びをする。
「久遠ー帰んぞー」
「先帰ってて」
顔も上げずに答える。
小林が一瞬だけ止まった。
「お前さ」
少しだけ、声のトーンが変わる。
「いつも残ってるけど、なにやってんの?」
手が止まる。
少しだけ考える。
どうでもいいことだ。
隠す必要も、ない。
「…昔からの知り合いがいて」
言葉を選ぶ。
「そいつのこと、ずっと気にかけてて」
「おう」
小林が興味深そうに覗き込む。
「それがきっかけで、心理やってるようなもんでもあって」
「今も?」
「今も」
小林が小さく笑う。
「それ、ほぼ人生かけてんじゃん」
「別に」
否定はしない。
小林はそれ以上は何も言わなかった。
「じゃあなー。なんか分かんないけど、がんばれー」
手をひらひら振って、研究室を出ていく。
ドアが閉まる。
静かになる。
パソコンの光だけが、部屋に残る。
頭の中で、今日のことを考える。
今日の凪。
強い衝動。
刺激を減らすには、外に出さない。
ただ、なにも思い出させなければいい。
それだけでいい。
それだけで、彼を保てる。
凪は、解離性同一性障害だ。
だから。
だから、俺が必要なんだ。
俺だけが凪を理解している。
俺だけが凪のそばにいてやればいい。
俺が、俺が。
「…俺だけが」
誰に向けたわけでもないその言葉だけが、
静かに、そこに残った。