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私は世界に存在を否定されている。雨に、水に濡れないからだはいつから存在していたなど、とうに忘れてしまった。気づいたときには片手ずつに木製の万年筆と革の手帳を握りしめていた。
不思議なことに、錆びない万年筆はどれだけ使ってもインクが切れないし、真新しい手帳に書いたことは文字が沈むように消えて決して忘れなくなった。私は食も睡眠も必要とせずにいつもボーっと小高い丘に佇んでいた。
「トキさん、必ず帰ってくるよ。それまで待っててくれ」
「無事の帰還を…次郎さん」
春風に狂い咲きした桜がひらひらと舞い散る昼下がり、気がつくといつの間にか隣に恋仲らしい男女が抱き合っていた。
偉丈夫のかっちりした軍服姿が凛々しい青年はその頼もしい両腕を彼女の背中に回し、紺のセーラー服に身をまとった華奢な長髪の少女はされるがままに彼の胸に頭を預けていた。暖かい日差しを遮るポツンと一つだけ佇む桜は、私と彼らを涼やかな木陰に包み込んでいる。
しばしそうしていると、彼と彼女はどちらからともなく見つめ合って頬に朱をさすとそっと一歩後ずさった。露出した太い桜の根に腰をおろして、堅い樹木もたれかかる私にはそれが何とも初々しく感じられて、思わずクスリと笑みをこぼしてしまった。いけないことだ、仲睦まじい者達の逢瀬に水をさしては趣が一気に霧散してしまう。
声が耳をかすめたのかサッと私の方に振り向いた彼は、私のことが見えていないようで存外目を丸くして、わずかに怪訝さを目ににじませた彼女に向きなおった。
「どうかしましたか次郎さん」
「…いや、何でもない」
「おかしな人ですね」
コロコロと鈴の音がなるような声で口元をほころばせた彼女は、長い睫毛を少し伏せて一拍の後、ゆっくりと彼の顔を見上げると深い慈しみの中に寂しさが覗く哀切な笑みを浮かべた。ピクリとも動かない彼の広い背中を見上げた私からは、どんな表情を彼女に見せているのか想像もつかなかい。
不意にこれ以上ここにいるのは良くないと見切りをつける決心をすると、私は足音を立てないように低い青草を慎重に踏みしめて、そそくさと木陰の帳を抜け出し、新緑の覆う緩やかな丘を降りていった。
ふと雑木林の前で立ち止まり、眼下に落ちているそれを目にした私は、黒目を瞬かせた。