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――キャンプ3日前。
夜の環七通りは、静かな時間帯を迎えていた。
旅行まであと3日とあって、シェアメイトたちは逸る気持ちをアルコールで沈静化させようと、リビングで宴会を開いている。
「真由さん、ちょっといいですか」
「……ええ、いいわよ」
ツトムの真剣な表情を察した神谷真由は、ワインをテーブルに置いて立ちあがった。
ふたりは誰もいないカラオケボックスのソファにむかい合って座った。
「さきに結論から言います」
とツトムは言った。
「旅行当日、真由さんのビッタを貸してください。
……いえ、正確にいうなら、旅行のある局面において、真由さんの力が必要になるかもしれません。そのときは、一瞬の迷いもなくビッタを発動してもらえませんか」
「わかったわ」
神谷真由は即答した。
「ありがとうございます」
「誰に私のビッタを使えばいいの?」
「対象となるのは時夫です」
「時夫くんね」
神谷真由はあらかじめ予想していたように言った。
「時夫のビッタは、時夫自身が自由自在に引きだすことのできないタチの悪いものです。彼の両腕には、まるでビッタを発動させるスイッチのようなアザがあり、右腕のアザが消えると災いが、左はその逆、つまり幸福をもたらします。
そして今回消えると思われるのは、災いを呼ぶアザのほうです。それは時夫の生死を揺るがすほどの致命的な危機となって、彼に襲いかかるかもしれません」
神谷真由は一語一句を逃さないよう、ツトムの話に耳を傾けた。
ツトムは時夫を守るために立案したすべての計画を神谷真由に伝え、そのうえで自身のもつ能力も余すところなく伝えた。
黙ったまま話を聞く神谷真由の額から、一筋の汗が流れ落ちた。
「ぼくはこのビッタで時夫を守ります。だけど、もしぼくの力がおよばなかったときには、真由さんのビッタが必要になるかもしれません」
神谷真由は目を閉じ、しばらく考え込んだ。
「私になにができるの?」
「時夫は、自身のビッタが発動するときのことをこう言いました。まるで肉を剥ぎ取られたような痛みが走り、アザはすっかり消えていたと」
「それが発動条件ってことね」
「おそらく」
ツトムは椅子から腰をあげ、小窓からシェアメイトたちの姿を見た。
「じつはビッタとビッタを互いにぶつけると、どちらか片側が消滅することがわかっています。たとえば人を殴るビッタと、人に殴られないビッタがあるとしましょう。お互いが同時に発動すれば結果はどちらかに転ぶか、あるいはどちらにも転ばない。この二択となります。それとおなじ現象です」
「うん。よくわかったわ」
「それなら災いを呼ぶビッタに対し、幸せを呼ぶビッタをぶつけたらどうなるのか。時夫の身に不可避な災難が迫ったとき、そこに幸運のビッタをぶつけてやれば、もしかすると相殺できるのではないかと考えました」
「……」
「ビッタが発動したあと、アザはすっかりと体から消えます。つまり逆を言うなら、強制的にアザさえ消してしまえば、ビッタが発動できるかもしれないと考えたんです」
「たしかに……すばらしい考えだと思うわ。でも、どうやったらそれが可能なの? ビッタが時夫くんの意思によらないのなら、強制的に消す方法なんてないんじゃない?」
「幸せを呼ぶアザを、肉ごと引きちぎってしまえばいいのです」
「えっ?」
「そうすることで、強制的に幸運のビッタを発動させて、災難にぶつけます。もちろんこれは机上の空論であり、確証なんて一切ありません。それでも時夫が命の危険にさらされるなら、使わない手はないと思っています」
神谷真由はツトムの残酷な提案に眉をひそめはしたが、その瞳はしっかりと現実を見据えていた。
「時夫の命を脅かす土壇場において、ぼくらの肉声はおそらく届かないでしょう。だから真由さんにお願いしたいのです。そのときがくれば、一瞬の迷いもなく時夫の脳に思念を送ってください」
「なんて伝えればいいの?」
「天使を引きちぎれ」
「天使を……引きちぎれ」
「そうです。長い言葉は、理解するまでに時間を要します。だからこの一言だけ伝えてください」
神谷真由はテーブルに視線を落としたまま考え込んだ。
「それほど恐ろしいビッタなら、事前に時夫くんにその方法を伝えておけばいいんじゃないのかしら」
「いえ、これはあくまでも最終手段です。本来の目的はいたって単純なものです。ぼくがあいつを守る、ただそれだけなんです。何事もなく楽しい旅行を終え、これからシェアメイトたちとの幸せな日々がはじまる。ただそれだけなんです」
「優しいのね、ツトムくん」
「あいつの優しさを守ってやりたいんです」
ツトムの脳裏には、ひよりを献身的に介護する時夫の姿が浮かんだ。
「わかったわ。私はあくまで自然なかたちで、時夫くんのそばいるようにするわ」