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カチッ、カチッ、カチッ……。
世界はツトムの企図をあざ笑うかのように、さらも時間を進めていく。
ツトムはもう一度、アナログ時計の針を浮かべようとした。
しかし時空がじれたような時計しか浮かばず、うまく針がイメージできない。
落ち着け、落ち着け、落ち着け――!
心でそう叫ぶほどに、混乱は増していく。
時夫を取り巻くいくつもの状況が、絡まりあった糸のようにツトムの心をかき乱していた。
そのとき――。
雷神川のはるか上空から、一筋の光が差し込んだ。
光はスポットライトのようにツトムの全身を照らした。
ツトムはあまりの眩しさに、その光から目を逸らした。
すると足もとの岩々が、砂の地面へと変わっていた。
ツトムは自然とその場に立ち止まり、ゆっくりと前方に視線をむけた。
目のまえには、広大な砂の大地が広がっている。
いつかどこかで見たことのある風景だった。
ここは……。
足もとの砂の感触と、注がれるまばゆい光。
遠くから、巨大な声が圧力となって迫ってくる。
まるで野生動物の群れのように、巨大な声の集合体がツトムへと近づいてくる。
ナンカイ! ナンカイ!
その音は、言葉をもっていた。
「南海!」
と、声の群れは叫んでいる。
同時に「花塚!」と呼ぶ声も聞こえる。
ツトムは目を凝らし、光のさきに広がる景色を視野に収めた。
数万人の群衆がツトムを囲んでいた。
そこはベースボールスタジアムだった。
ビリビリと突き刺すような音圧と、期待に溢れた視線がツトムに注がれている。
前方には球界の大投手、花塚茂の姿がある。
ロージンバッグを手にした花塚が、冷静な面持ちで捕手とサインを交わしている。
プロ野球日本シリーズ第七戦。
ツトムが一軍としてグラウンドに立った、最後の日の光景だった。
花塚が選球作業を終え、マウンド上で大きく振りかぶった。
手を離れた剛直なストレートが、キャッチャーミットに向かっている。
ツトムは強くグリップを握り、渾身のストレートを打ち返した。
カキィィン!
甲高い衝突音とともに、打球は空高く舞いあがった。
浅い守備位置にいたセンターが反転し、打球を追った。
飛翔する球のさらにうしろには、でかでかと協賛企業名が書かれたバックスクリーンがそびえ立っている。
2対3の1点ビハインド。
スコアボードの左側には、代打「南海ツトム」の名が刻まれている。
その下には巨大なアナログ型の時計が、正確に時を刻んでいる。
……針!
それは走馬灯に似た、記憶の洪水だった。
ツトムは永遠に消えることのない鮮やかな記憶のなかから、アナログ時計を呼び起こすことに成功した。
『クイッ、クイッ』
バックスクリーンに手を伸ばし、秒針に指をかけて2度弾いた。
すると、世界はツトムの記憶だけを残したまま、6秒前へともどった。
ツトムの体が、瞬時に川から遠ざかった。
また女の子を追っていた男たちも、視界の端へと吹き飛ばされた。
消えたはずの百瀬の姿が、しっかりとそこにはあった。
百瀬がまっすぐな眼差しをツトムに送っている。
雷神川へと飛び込む直前の姿だ。
「ダメだ、あかね!」
ツトムは今度こそ、ありったけの大声で叫んだ。
しかし百瀬は深く息を吸い込み、再び荒れ狂う雷神川へと飛び込んでしまった。
くそっ……!
『クイッ』
ツトムはもう一度、眉間に指を当てて折り曲げた。
世界はさらに3秒をさかのぼった。
これでツトムの失神は決定した。
再び姿を現した百瀬が、決意の眼差しをツトムにむけている。
足もとにある一枚岩を蹴りつけ、雷神川へと飛び込むために体を反転させた。
ツトムは強く大地を蹴って、百瀬めがけて飛んだ。
ガシッ!
ヘッドスライディングの要領で右手を伸ばすことで、すんでのところで百瀬の足首をつかんだ。
「キャアッ」
バランスを崩した百瀬が悲鳴をあげて、その場に倒れた。
「あかね、行っちゃだめだ!」
「ねえ、あれ!」
百瀬が水面の一点を指さした。
長く沈んだままだった時夫が、ようやく水面に姿を現した。
左腕には女の子を抱きかかえている。
時夫は大気をすべて吸い込むほど深く呼吸した。
「時夫、岸に戻るんだ!」
時夫が残された腕で水を掻き分け、岸にもどろうとしている。
しかし雷神川の流れは激しく、ふたりは下流へと運ばれていく。
ツトムはすぐに立ちあがり、時夫を追って走った。
さらなる下流には、まるでサメの尾ひれのような巨大な岩壁がそびえ立っていた。
すべての水はその岩壁に切り裂かれては、左右のどちらかに仕分けられて消える。
時夫と女の子の体は、吸い込まれるように岸壁へと近づいていく。
そのとき、女の子の体が時夫から離れ、高く宙を舞った。
まるで小魚が釣り糸で引きあげられるように、女の子は川岸へと吹き飛ばされた。
岸に立つひとりの女性が、濡れたその小さな体を受け止めた。
「……ユズナさん」
大葉ユズナが、女の子を抱きかかえている。
「マリナ! ……よかった」
川下にむけて走っていた男たちがようやく足を止め、安堵の声をあげた。
上流で叫んでいた母親の声も、ようやく止まった。
「……もうだいじょうぶだよ」
大葉ユズナは女の子を強く抱きしめ、濡れた髪を撫でた。
「時夫……」
雷神川のうねりのなかに、なおも時夫が取り残されている。
全力で岸へと泳いではいるが、鋭い切っ先をもつ岩壁はもうすぐそばまで近づいていた。
もはや自力では間に合う距離ではなかった。
――ツトムくん!
誰かが大声でツトムを呼んだ。
その声は空気を揺らすものではなく、ツトムの脳に直接響くものだった。
ガーデンパラソルを離れ、水流すれすれに立つ神谷真由の思念の声だった。
神谷真由の視線は、時夫にではなくツトムにむけられている。
「真由さん、あとはたのむ!」
ツトムは最後の声を振り絞った。
その声を聞いた神谷真由は大きくうなずき、目を閉じて祈りを捧げたあと、その場に崩れ落ちた。
時夫と岩壁との距離は、わずか10メートルにまで迫っていた。
「もうダメ!」
百瀬の叫び声が響きわたるのと同時に、時夫は水をかき分けていた腕を空にむけて高くかざした。
水流のなかで、腕が鉄塔のようにそびえたっている。
時夫は残った手で、腕にある天使のアザをわしづかみにした。
そして鷹のように鋭く爪をたて、アザを肉ごと引きちぎった。
百瀬と神谷真由の悲鳴が、雷神川にとどろいた。
「よくやった、時夫」
すべてを見届けたツトムは、無機物となって全機能を停止させた。