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消失の直後、ナコハはあることを思い立った。
それは、ほんのささやかなことだった。
昼に食べる弁当を、自分のためだけに詰めるということ。
輪っぱの弁当箱は、ずっと前から持っていた。
結婚祝いでもらったものだったが、職場に持っていくことはほとんどなかった。
匂いが出るとか、目立つとか、そういう理由を後づけして。
炊いたのは魚沼産のコシヒカリだった。
以前、実家から少しだけ送られてきたもの。
「もったいないから」と言い聞かせて、ずっと冷暗所にしまってあった。
今までは、職場に持っていく弁当にはブレンド米を使っていた。
皆が同じような値段帯で、同じような量で、同じような昼を過ごしていたから。
誰かの視線を理由にするのは、いつも簡単だった。
おかずは、おばんざいをいくつか。
派手ではないけれど、ご飯に合うもの。
自分が「これでいい」ではなく、「これがいい」と思った組み合わせ。
蓋を閉めたとき、ナコハは少しだけ手を止めた。
罪悪感というほど大きなものではない。
ただ、誰にも配慮していない感触が、指先に残った。
―――
昼休み。
フロアには、相変わらず人の気配がないほどの静けさ。
席が、いくつか空いている。
誰がいなくなったのかを、もう正確には思い出せない。
名前も、机の位置も、少しずつ曖昧になっていた。
ナコハは自席で、輪っぱの蓋を開けた。
湯気がふわりと立つ。
白が、きれいだ。
箸を伸ばそうとした、そのとき。
「……いい匂い」
声がして、心臓が跳ねた。
思ったより近くから聞こえた。
顔を上げると、新社長が立っていた。
就任してまだ日が浅く、職場に「溶け込んでいる」と言えるほどではない存在。
視線が、弁当箱に向けられている。
いつものようにタブレットを片手に、
まるで廊下を歩く延長で、ここにいるような自然さだった。
「それ、いいお米ね。香りでわかるわ
新潟の……」
「えっ……あ、魚沼産のコシヒカリです」
ナコハは、反射的に謝りそうになった。
でも、何に対してかがわからず、言葉が出てこない。
一瞬、彼女の眉が上がる。
「やっぱり」
そう言ってから、少しだけ笑った。
「私はね、産地は違うけど青天の霹靂が好き。
粒が立ってて、主張しすぎないのに、芯がある」
そう言って、新社長は楽しそうに笑った。
さらに輪っぱの中を覗き込み、
ひじきと鮭を見て、満足そうにうなずいた。
「いい組み合わせ。
あなた、アタシと気が合いそうね!」
軽い調子。
冗談めいていた。
でもナコハは、
その瞬間、箸を持ったまま固まった。
胸の奥で何かが引っかかるのを感じたからだった。
――気が、合う。
今まで、
誰かと「気が合う」と言われる側に立ったことが、
ほとんどなかった。
「みんなに合わせられる」
「空気を壊さない」
「便利」
そういう評価ばかりだった。
ただ、
――合う、だろうか。
好みの話なら、そうかもしれない。
でもこれは、合わせたわけではない。
今まで、ナコハは選ぶたびに少しずつ調整してきた。
値段、量、匂い、話題性。
「みんな」の中で浮かないように。
今日の弁当は違う。
誰の顔も思い浮かべずに詰めた。
「……ありがとうございます」
そう返すのが精一杯だった。
新社長は、そこで言葉を止めた。
ほんの一拍。
会話としては不自然なほど短い沈黙。
ナコハはその間に、気づいてしまった。
この人は、同じだと思ったのだ。
同じ価値観で、同じ基準で選んだのだと。
けれど、ナコハは初めて、
自分の基準で選んだだけだった。
新社長は微笑みを戻し、何事もなかったように言った。
「またおすすめ、教えてちょうだい」
彼女はそれ以上踏み込まず、
「じゃ、ごゆっくり」と言って立ち去った。
足音は相変わらず軽く、合理的で、迷いがない。
去っていく背中を見送りながら、
ナコハは心でつぶやく。
――やって、いけるかな?
ようやく箸を取った。
ご飯は、驚くほど美味しかった。
その美味しさが、
誰とも分け合わなくていいことが、
なぜか少しだけ、怖かった。