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エウリュステウス王は、ヘラクレスへ第三の試練を命じた。
「アルテミスの聖なる鹿――ケリュネイアの鹿を、生きたまま連れてこい。」
鹿は風より速く駆ける神獣だった。
ヘラクレスは山を越え、谷を渡り、ただ一人、その背を追い続ける。
一年――。
ようやく鹿が川辺で足を止めた瞬間、ヘラクレスは矢で脚だけを射抜き、
命を奪うことなく捕らえた。
だが帰路、その前に狩猟の女神アルテミスと兄アポロンが現れる。
「我が聖獣に何をした。」
女神の怒りに、ヘラクレスは静かに頭を下げた。
「これは王から与えられた試練です。役目を果たした後、
必ずあなたへお返しします。」
その誠実な言葉を聞いたアルテミスは怒りを収め、ヘラクレスを許した。
こうして、
女神の怒りによってヘラクレスを滅ぼそうとしたエウリュステウス王の企みは、
静かに潰えた。
ガレアグアの塔攻略のため、選抜隊が編成された。
選ばれたのは腕自慢ではない。
軽装で、足音一つ立てず闇を進める者たちだった。
夜陰に紛れ、隊は塔のふもとへ到着する。
城内からは祭りの音楽と人々の歓声が絶え間なく聞こえてくる。
だが、城壁の上からは兵の話し声も、鎧の触れ合う音も聞こえなかった。
先頭の兵がゆっくりと梯子を登る。
城壁へ身を乗り出し、周囲を見回す。
敵影はない。
小さく合図が送られると、兵たちは次々と城壁へ上がり、
壁沿いに身を低くしてヘクサピオの門を目指した。
もっとも、シラクス軍の兵がすべて酒に酔い潰れていたわけではない。
見張りも哨戒兵も配置されていた。
だが、祭りの日だけは警備の人数が減らされていた。
彼らの視線もまた、城壁の外ではなく、
灯火に照らされ賑わう城内の祭りへと向けられていた。
その夜だけ生まれた、わずかな油断。
まさに――間隙の夜であった。
最初の部隊がヘクサピオの門へたどり着いた、その時だった。
――ピーッ!
夜の静寂を切り裂く警報の笛が、シラクス中へ鳴り響く。
ついに見つかった。
だが――。
もう遅かった。
北門の外でその音を聞いたマルスは、小さく口元を緩める。
「始まったか。」
もはや息を潜める必要はない。
「総攻撃!」
号令とともに、破城槌が北側の城門へ次々と叩きつけられた。
鈍い轟音が夜空を震わせる。
城壁では異変に気づいた兵たちが右往左往し、
祭りの喧騒は瞬く間に悲鳴へと変わっていく。
静寂に包まれていたシラクスは、その一夜にして戦場へと姿を変えた。
エピキュデスは騎馬隊を率いて北門に向かったが
もうすでに門は破られ軍団兵は雪崩れ込んでいた
エピキュデスは残存兵を率い、城郭エリアへと退却した。
一方、市街では逃げ惑う市民が押し寄せ、悲鳴と怒号が入り乱れる。
祭りの熱気に包まれていた街は、一夜にして混乱の渦へと飲み込まれていた。
ヘクサピオの門を突破したグラン軍は、勢いそのままに要塞へなだれ込む。
この一帯は、巨大な要塞都市を見下ろす高地の大半を占める重要拠点である。
夜明けを迎える頃には、その高地は無数のグラン兵で埋め尽くされていた。
マルスをはじめとする幕僚たちは、高台へと進み、
眼下に広がる要塞内部を静かに見渡す。
なおも各所で戦いは続いていた。
しかし、誰の目にも明らかだった。
――大勢は、すでに決していた。
一年もの間、陸からも海からもグラン軍を寄せつけなかった難攻不落の要塞。
その要塞は、一夜にして陥落した。
救援に駆けつけたカルタゴ艦隊も。
上陸したヒミルコの軍勢も。
グラン軍との正面決戦を避け、ついに要塞を救うことはなかった。
シラクスは、見捨てられたのである。
その頃、要塞の内部では勝者となった兵士たちによる略奪が始まっていた。
長き包囲戦の末に解き放たれた欲望は、金銀財宝だけでなく、
豪奢な館や神殿へと向けられていく。
こうして、地中海屈指の繁栄を誇った都市は、その栄華に終止符を打った。
要塞の各所で略奪と制圧が続く中、マルスはただ一つの命令を下した。
「アルキメディアを、生け捕りにしろ。」
幕僚たちが顔を見合わせる。
「どうしても、あの男に会わねばならない。」
マルスの言葉は、それだけだった。
兵士たちは市内を駆け回る。
「おい、住民は全員、この広場へ集まれ!」
「アルキメディアという男を知らないか!」
だが、恐怖に震える住民たちは首を横に振るばかりだった。
一人の兵士は、広場へ来ようとしない老人に気付く。
「おい、じじい!」
返事はない。
兵士は屋敷へ踏み込んだ。
老人は床いっぱいに広げた図面へ身をかがめ、何本もの線を引き、
数式を書き続けている。
まるで外の喧噪など耳に入っていないかのようだった。
「聞こえなかったのか!」
「我々はアルキメディアという男を探している!」
それでも老人は顔を上げない。
兵士は苛立ち、図面の上へ乱暴に踏み込んだ。
その瞬間、老人は初めて顔を上げる。
「……おい。」
静かな、しかし怒気を含んだ声だった。
「私の円を乱すな。」
兵士のこめかみに血が上る。
ゆっくりと、剣へ手をかけた。
兵士は剣を抜いた。
一閃。
老人はその場に崩れ落ちた。
床へ赤い血が広がる。
「あった、ここだ!」
「ここがアルキメディアの屋敷だ!」
「将軍を呼べ!」
「七十五歳の老人に――我がグラン軍は一年ものあいだ翻弄され続けた。」
マルスは、冷たく目を閉じた老人の亡骸を静かに見つめた。
やがて、その傍らへ歩み寄る。
「あなたに、一つだけ聞いてみたかった。」
しばらく沈黙が流れる。
「……人類の知は、神を超えられるのか。」
答える者はいない。
床に散らばる図面と数式だけが、
この老人が最後の瞬間まで知を追い求めていたことを物語っていた。
マルスは小さく息を吐く。
「聞いてみたかったな。」
そう呟くと、振り返って部下たちへ命じた。
「……皆、下がれ。」
兵たちは無言で部屋を後にする。
静寂だけが残る部屋で、マルスはしばらく一人、
偉大な知者の亡骸と向き合っていた。
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コメント
1件
うわ……読んだあと、しばらく言葉が出ませんでした。アルキメディアの最期、あんなにあっけなく、それでいてあまりにも彼らしいというか。「私の円を乱すな」の一言だけで全てを物語っていて、胸が締め付けられました。マルスが「人類の知は神を超えられるのか」と問いかけるシーン、前半のヘラクレスの話と静かに響き合っていて、構成の巧みさに痺れます。祭りの喧騒から一転して戦場と化す夜の描き方も、本当に目に浮かぶようでした。