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夜の上野公園は、昼間の喧騒が嘘のように静まり返っていた。
終電を逃した私は、人気のない園内を駅へと急いでいたが、ふいに強い尿意に襲われた。スマートフォンの地図には、少し先に「公衆トイレ」の表示がある。仕方なく、暗い林の奥にぽつんと建つ古びた建物へ向かった。
コンクリート造りの小さなトイレ。蛍光灯が一本だけ、じりじりと不規則に明滅している。入口の横には、かすれた文字で「清潔にご利用ください」と書かれていた。
中に入ると、妙に静かだった。
しん、と音が吸い込まれるような静けさ。個室は三つ。いちばん奥の扉だけが、わずかに開いている。
私は真ん中の個室に入り、鍵をかけた。その瞬間――
コン、コン。
壁を叩く音がした。
右隣からだ。
誰かいるのかと思い、「すみません」と声をかける。しかし返事はない。代わりに、コン、コン、コン……と、今度は三回。
嫌な感じがした。子どものころ聞いた噂を思い出す。「夜中の公衆トイレでノックに返事をしてはいけない。返すと“場所を譲った”ことになる」と。
馬鹿げている。そう思いながらも、私は黙り込んだ。
すると今度は左隣から、
コン。
一回だけ。
心臓が跳ねる。右にも左にも、誰かいる? 入るときには気配などなかったのに。
ゆっくりと視線を落とす。
足元――仕切り板の下。
右側から、白い何かが、すっと伸びてきていた。
指だ。
異様に細く、関節が多すぎる。一本、二本、三本……数えきれないほどの指が、蜘蛛の脚のように床を探っている。
息を殺す。
すると左側からも、同じ白い指が、音もなく伸びてきた。
両側から、こちらへ。
私は反射的に便座の上に足を乗せた。指は床を這い、私の靴先を探している。ぬるり、とした感触が靴底に触れた瞬間、鳥肌が全身を走った。
――見つけた。
そんな声が、頭の中で響いた。
次の瞬間、個室のドアが激しく揺れた。ガン、ガン、と外から叩かれる。鍵が悲鳴を上げる。
「やめてください!」
叫んだとき、気づいた。
外から叩いている音が、三方向から聞こえる。
正面のドア。右の壁。左の壁。
ありえない。
この個室は、両隣と、そして――奥は外壁のはずだ。
ガンッ!
強烈な衝撃とともに、奥の壁が内側に膨らんだ。コンクリートが、内側から押されている。ひびが走り、白い粉がぱらぱらと落ちる。
その亀裂の隙間から、覗いていた。
無数の目。
瞬きもせず、こちらを見つめている。
「代わって」
今度は、はっきりと耳元で囁かれた。
気づけば、床一面が白い指で埋め尽くされていた。私の足首を掴み、引きずり下ろす。冷たい。生き物の温度ではない。
必死にドアノブに手を伸ばす。
開かない。
鍵は、内側から確かにかけたはずなのに。
視界が反転した。床に叩きつけられ、天井の蛍光灯が明滅するのが見える。白い指が顔に触れ、口をこじ開けようとする。
「ひとり、出たから」
誰かの声。
そして、ぷつりと蛍光灯が切れた。
――――
翌朝。
清掃員が奥の個室を開けると、そこには誰もいなかった。ただ、床一面に泥のような手形が残っているだけだった。
三つある個室のうち、いちばん奥の扉だけが、わずかに開いている。
中から、コン、と小さな音がした。