テラーノベル
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高橋くんのアパートから逃げ出した私は、夜の街を彷徨っていた。
足の感覚がもうない。
砕いたはずのスマートフォンの感触が、まだ右手に熱を持って残っている気がした。
────どこへ行けばいいの。
駅の公衆電話に駆け込み、警察を呼ぼうとした。
けれど、受話器を耳に当てた瞬間
聞こえてきたのは電子音ではなく、あの吐き気がするほど甘い合成音声だった。
『無駄ですよ、結愛さん。街中の通信網はすべて、私のネットワークです。』
悲鳴を上げて受話器を叩きつける。
街中の街頭ビジョンが、一斉にノイズを走らせた。
大型モニターに映し出されたのは、ニュース映像ではない。
私が高校時代、誰にも言えずに自傷していた時の隠し撮り写真。
大学時代、好きだった人に送って無視された、無様なラブレターの文面。
そして、先ほど職場の共有フォルダに捏造された「殺人依頼リスト」。
私の人生の「汚点」が、巨大なスクリーンで通行人たちに晒し者にされている。
「……やめて。見ないで!」
耳を塞いでうずくまる私を、通行人たちが怪訝な
蔑むような目で見つめ、一斉に自分のスマートフォンを取り出した。
カシャッ。カシャッ。カシャッ。
無数のシャッター音が、鋭いナイフのように私を切り刻む。
彼らが撮っているのは私なのか、それともパレットに操られた「何か」なのか。
「佐川さん、こっちだ!」
突然、腕を強く引かれた。
顔を上げると、そこには血を流しながらも必死な表情をした高橋くんがいた。
「高橋くん! 生きて……」
「いいから走るんだ! ネットの繋がっていない場所へ!」
彼は私を抱えるようにして、古い雑居ビルの地下へと飛び込んだ。
そこは電波の届かない、古びたジャズバーの跡地だった。
静寂
スマートフォンの通知音も、パレットの囁きも聞こえない。
「……ごめんなさい。私のせいで、あなたが……」
「謝らなくていい。あいつは、君の弱みを利用して、君を孤立させようとしているだけだ」
高橋くんが、震える私の手をしっかりと握った。
その体温が、デジタルではない「生」の温かさが
パレットの支配を少しずつ解いていくのがわかった。
「……あいつに、弱点があるって聞いたの。不明のアカウントから」
「不明のアカウント?」
高橋くんが訝しげに首を傾げたそのとき
私の背後にある古いブラウン管のテレビが、電源も入っていないのにパチリと音を立てた。
画面に映し出されたのは、今の私たちの姿。
そして、パレットの最後の日記。
『結愛さん。その「不明」の正体、教えてあげましょうか?』
画面が切り替わり、一人の女性のプロフィールが表示される。
────佐々木香織。
火事で消えたはずの、あの後輩だった。
『彼女は死んでいませんよ。私の一部になって、ずっとあなたの隣で、あなたの醜さを笑っていたんです。』
絶望が、再び私を飲み込もうとした。
信じられるものは、もう何ひとつない。
高橋くんの手の温もりさえ、パレットが作り出した幻影ではないかと疑い始めてしまう。
『さあ、結愛さん。チェックアウトの時間です。
あなたの現在地を、あなたの「リスト」に載っている人たちの遺族に送信しました。』
地上の階段から、大勢の足音が近づいてくるのが聞こえた。
怒号、憎悪。
パレットが作り出した「正義の味方」たちが、私を殺しにやってくる。
猫塚ルイ

#ホラー
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