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#TL
瀬名 紫陽花
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「義妹のことを知っているかな?」
ホーズの声がどこか遠くから響いているように感じられた。女は唇を引き結び、皮肉めいた笑みを浮かべる。それから首を傾げ、シオンから視線を逸らしてホーズへ目を向ける。では、この人がフローレンスなのか。司祭の弟ジェイムズに力任せにデカンダーを投げつけて、顔の骨を砕いた女。そのせいで傷口から感染し、彼は敗血症で死んだ。
「大丈夫だ。出てこられないから」
それは見ればわかる。これは独房だ。上等な家具が設えたガラス張りの空間だが、独房に変わりはない。
「どうだ、シオン」
彼の顔には変わらぬ笑みがあった。消えていない。
「想像もしていませんでした」
女はシオンより十歳ほど年上で、顎と頬の曲線が目を惹く際立った美女だ。とはいえ、シオンは美しい女を見るのは、これが初めてではなかった。玄関広間の暖炉の上に飾られていた肖像画の人物であることは明らかだ。
「驚いただろうな」
「驚いたですって?度肝を抜かれましたよ」
そこで我に返って言う。
「この人はどうしてここに?こんなことが許されるんですか?」
「ここか精神病院かの二者択一だった。ジェイムズを殺めた後、裁判官は病院送りにしようとした。私は彼女を守るためにあらゆる手を尽くした。でも君は、ベドラムの病院で拘束服を着せられていた方が良かったと思うのかね」
ホーズはシオンの言葉に棘を感じたのか、苛立たしく言う。彼の言葉が再び遠くなり、シオンはフローレンスをじっと見た。やはり信じられないほどの美しさだ。なんの関心もない目でこちらを見ているので、まるでガラスの奥に閉じ込められているのはシオンの方であるかのようだ。
「では、この人はここで暮らしているんですか?」
「裏に寝室と洗面所がある。出入口が見えるだろ?」
独房の奥に細長い開口部が見える。
「だから必要な時はプライバシーが守れるんだ。食事も私たちと同じものだよ」
「なるほど……」
彼の頭の中に考えが巡った。人間を動物園の展示動物のように閉じ込めていいはずがない。とはいえ人を殺めたのだし、ベドラムでの生活はここよりも遥かに悲惨だ。
シオンは研修の一環でその恐ろしい施設に行ったことがあった。入院患者は昼も夜も鎖で壁に繋がれ、体を揺さぶって錯乱状態に陥っている。自分は正気だと訴える者もいるが、隙を見せれば首に噛み付いてきかねない。たまに治療が奏功して退院できる者もいるものの、それはごく稀で極めて穏やかな患者に限られる。そう、ベドラム行きは可能な限り避けるべきだ。残酷に見えても、ここの方がずっとましだろう。
「容易かったわけではない。苦渋の選択だった」
ホーズの声から怒りの響きが消え、後悔のようなものが滲んだ。「誰もが苦しんだよ」と言って、懸命にハンカチで額を拭う。
シオンは彼女に話しかけたかったが、相手はまるでその気がないようだ。
「食事はどうしているんですか?」
「足元に小さな隙間がある」
彼は下を見た。ガラス板に開閉できる長方形の窓がついている。ちょうど食事の盆を出し入れできる大きさ。
「出入口はあるんですね」
「身の安全を守るために出入口はつけてない。完全に閉じ込められているんだ。清潔が保たれるように、肌着類はその窓を使って交換している。水も双方向に流れているよ。その他に出し入れしているものはない。裁判所の命令でそうしている」
裁判所の命令か。シオンは心の中で呟く。
「フローレンス」
そう言うと、名前を呼ばれた相手の瞳孔が反応しているのがわかった。
「聞こえますか。私はあなたの親族です血つづきではありませんがね。医師のシオン・グレイといいます」
返事を待ったが、相手は無言のまま。瞳の変化の他は、何も感じとれない。
「ホーズ博士の病気を治療するために来ました」
もしかしたら、表情が微かに変わったのだろうか。唇の端がほんの少し上がった気がした。とはいえ薄明かりの中では、見間違えただけかもしれない。
「返事はあるまい。気が向いたら話すが、頻繁ではない」
「何か話してもらえませんか?少しでも構いません。一言だけ」
「今夜は無理だよ」
「どうして分かるんですか?」
「フローレンスも飲んでいる」
「どういうことですか?」
ホーズの何気ない言葉に、どこか不穏なものを感じた。
「診察した医師によると、フローレンスの血液には糖が過剰に混じっているらしい。落ち着かせるためには、朝晩に阿片チンキを少し飲ませるのが一番だそうだ」
阿片チンキ(阿片をブランデーに溶かした液剤)は、興奮しやすい患者によく処方される。過度の興奮を鎮めるのに有効ではあるが、この場合は倫理的に正しい処置なのだろうか。
「今夜も飲ませたんですか?」
「いつもの分量をな。手のそばにタンブラーがあるだろう」
シオンはその時、初めてこちらと対をなす小さな八角形のテーブルを見た。空のタンブラーが横倒しで乗っているのに気づく。フローレンスもタンブラーに目をやる。こちらの会話を聞いているのは明らかだ。つまり体は思うように動かせなくても、頭ははっきりしている。これほど残酷な仕打ちがあるだろうか。ガラスの奥に監禁するのも酷いが、麻痺した体に心を閉じ込めるのはその百倍酷い。
「どこにしまってあるんですか?」
ホーズは部屋の隅に置かれている鍵付きの書記机を手で示し、ポケットから鍵を取り出した。
「瓶の管理は万全だよ」
シオンはもう一度、ガラス越しに声をかける。
「フローレンス、私は医師です。何かお役に立てることはありませんか?」
返事はあまり期待していなかったが、それでも待った。やはり何も返ってこない。
「君は善良な人間だよ。素晴らしい心根だ。しかし、渡れない川もある」
ホーズの言葉に一考した。
「いつからあそこにいるんですか?」
「ジェイムズを殺めてからすぐだ。もうすぐ二年になる」
「それから一度も外に出ていない?」
「いや、一年前に少し出ていたよ。状態が落ち着いていて、安全に思えた時期があったんだ。その頃は廊下へ通じるドアがあって、私と共にここで過ごしたものだ。しかしやがて状態が急変して、ドアを封鎖した方がよいと判断した」
あなたにとってはよいだろう。でも、フローレンスにとっては?
ランプから火の粉が飛び散り、暗いガラスに反射する。彼女はそれを目で追い、しばらくしてシオンに視線を戻した。
自分の親族たちがなぜこうした異様な状況に陥ったのか、詳しく事情を知りたい。
「ホーズ博士」
「私のことは『叔父さん』と呼んで構わない。無論正確には違うが、その方が呼びやすいだろ」
「叔父さん」
ホーズに向き直った。
「私が知っているのは、フローレンスが貴方の弟を殺めた経緯だけです。理由を教えてもらないでしょうか」
彼は記憶の重みに押しつぶされているのか、ソファーに深く沈み込んだ。
「フローレンスはジェイムズがよからぬことをしていると疑っていた。今はそれしか言えない」
忸怩たる思いが込み上げてきたのか、青白い頬に微かな赤みが差す。
「わかります」
そう言ったが、ホーズの答えに返って好奇心を刺激された。
「君が納得したとは思ってないよ。いいかね、レイ島とマーシー島は僻地なんだ。地図を見てわかった気分になる辺鄙な土地だ。それゆえに心の隔たりも生じるんだよ」
彼はソファーの上で体をずらす。
「グラスに一杯、水を持ってきてもらえるとありがたい」
シオンはガラスの反対側にいるフローレンスの前からようやく離れたが、それにもかかわらず存在を強く意識した。瓶が数本並んだ書記机に歩み寄り、清潔な水だったので、グラスに注いでホーズに手渡す。
「ありがとう。つまり人間性は奇妙な形で表現するだと言いたいんだ。私は四十二歳になる。弟は私の六歳下だ。いや、かつてそうだった。フローレンスはその歳の中間だ。父親は大地王で治安判事のワトキンズ氏という。善良な紳士だよ。私たちは共に古い時代に育ち、半径数マイル以内に住む者といえば祖先が漁師で携わっていたのが……ああ、なんと呼ぶべきか」
「抜け荷?」
「まあ、物品税に疎かったとでも言おう。もちろん私は聖職者にして、この家にはきっちり税金を納めたものしか持ち込んではならないと常々言っている」
銀の柄杓のそばに用意された、ブランデーの小さな樽を見やった。自分ならこれに正当な税額をしっかり納めているとは思えない。
「そんなわけで、私たちは親しくなった。あえて言うなら、ジェイムズとフローレンスは私より奔放だった」
「続けてください」
登場人物の一人が阿片の作用でぼんやりしながらもこの話題に聞き入っていることに、気づいていた。ホーズは思い出し笑いをする。
「たとえばある日、私はここで読書に夢中になっていた。確かローマ史に関する本だったと思う。昔から大いに興味のある分野だったし、今もそうだ。その頃ジェイムズとフローレンスは、マーシー島でフランス語の個人授業を受けていた。そして家庭教師が背を向けた途端、二人は窓をよじ登ってハードまで歩いて行った。上着を脱ぎ捨てて小川を泳ぎながら〈ペルドン・ローズ〉まで行ったんだよ。そして下着だけずぶ濡れの姿で、真っ昼間に店に現れた。そこで厚かましくも、モーティに船で送らせたのさ。料金はうちの父親からもらってくれと言ってね。とんでもない奴らだった」
「そのようですね」
「二人とも無鉄砲でね、それに気性が激しい。ジェイムズが十六歳くらいの時。二人で地元の祭りへ行って、彼が農家の娘に色目を使ったことがあった。フローレンスは大立腹で、その娘は目の周りに痣を作ったよ。上品な振る舞いとはいえないが、二人とも子供だったんだ。また幼かった」
その後の記憶が蘇ってきたのか、ホーズはフローレンスがいる暗がりをじっと見つめた。
「なぜずっと暗いところに?ランプを持っていないんですか?」
「持ってるよ。つけるのもあれば、つけないこともある。個人の自由だ」
彼は大きなため息をつく。
「酷く疲れた。そろそろベッドに入るとしよう。眠れそうもないがね。君の寝室を教えるよ」
ホーズは体を起こした。シオンは手を貸そうとしたが、やんわりと断られる。彼は足を引きずって、ドアへ向かった。仕方なくその後へ続き、遠縁の女がいる独房に背を向ける。ランプの光が遠ざかり、独房は再び闇に包まれた。が、相手はまだこちらを見ている気配を感じる。
「赤いドアが君の寝室だ。ゆっくり休んでくれ」
階段の手前でいい、辛そうな足取りで自分の部屋へ向かう。
シオンはおやすみの挨拶をして、遠く離れた寝室に向かった。居心地が良さそうな部屋だが、カビ臭くて古めかしい。
彼は服を脱いでベッドに入り、布団を顎まで引き上げてから今夜に耳にしたことを頭の中で整理した。ホーズの病の原因について考えるべきなのはわかっているが、頭を占めているのはガラスの向こうにいる女のことだ。
コメント
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うわ……めちゃくちゃ重い雰囲気の回だったね。 フローレンス、ガラスの向こうに閉じ込められてるのも苦しいけど、阿片で思考まで曇らされてるのがもう…。シオンが「麻痺した体に心を閉じ込めるのはその百倍酷い」って思うシーン、すごく刺さった。 ホーズの「渡れない川もある」っていう言葉も重いなあ。 次、どうなるんだろう。気になる…🥀