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その夜、梅の君は、清涼院の君の御寝所を仮の宿として借り受けられぬ。ささやかな帳の内、馴れぬ香に包まれて、褥に身を横たえるも、どこか心の落ちつかぬままに時を過ごし給うた。
(…いと居心地悪く…この御簾の内は、わたくしのものにあらぬゆえか)
と、袖を抱きて目を閉じんとするも、まどろみの気配は遠く、耳ばかりはやけに鋭くなりけり。
その折より、渡殿のかなた、女房どもが行き交う音、御簾の揺るる気配、誰そ物言う声など、何やらやたらと騒がしう、夜気の静けさにも混じりて絶え間なかりけり。
「…なにゆえ、このようにも…」
と、独りごつ声も細く、梅の君は身を起こし、帳の向こうをぼんやりと見やり給う。月の光さえ届かぬ寝所のうち、ただ騒がしさのみが遠く響き、眠気はすでに雲の彼方へと逃げ去りぬ。
(やはり、わたくしは…まだこの場に馴染み得ぬものにて候ふか)
そんな思いの一端が、胸にわずかに影を差し、梅の君は、深きため息をひとつ、こぼし給うた。
「お辞めなされ…! どうか、お控えくださりませ!」
廊下の向こうより響く女房の慌ただしき声に、梅の君は胸騒ぎを覚え、ひとたび身を起こし給う。
その刹那
御寝所の扉が、風を裂くごとき勢いにて荒々しく開かれぬ。灯のゆらめきのなか、現れたるは、身丈高く、頑健なる体を鎧布のうちに包みたる男、まさに武士とも見まがう者なりき。
息を呑む間もなく、その男は踏み込みざまに梅の君へと近づき、無言のまま、我が胸ぐらをぐいと掴みたもう。
その力の強さ、容赦もためらいもなく、驚愕と痛みとが入り交じり、梅の君は声すらも洩らす間を奪われて、ただ目を見開いていたり。
「…そなたが」
男の口もとがかすかに動く。何を申すや知らねど、その声音はまるで怒りとも、哀しみとも判じ難く、空気をひりつかせておりき。
外では、なお女房たちが慌てふためく気配あり。風は止み、灯明の揺らぎだけが、沈黙と混乱を包み込むように照らしていた。
その男の低き声が放たれたその瞬間、褥を乱されし梅の君は、恐れと戸惑いとを胸に抱きつつ、ただ目を見開いたまま言葉を失いたり。
握られた襟のあたりより冷気が忍び入るがごとく、背筋をするどく撫で下ろされる感覚に、呼吸すら整わぬ。
「な、何事にて…」
ようやく絞り出すように発したその声も、男の静かなる怒気にかき消されるようでありけり。
そこへ、慌ただしく御簾が揺れ、寝所の奥より現れたるは清涼院の君なりき。袖をかかげて走り寄り、そのありさまを目にした刹那、表情が凍りつきたり。
「お待ちくだされ、何を…その手をお放しあそばせ!」
その声に、男はぎこちなく振り返り、目を細めて清涼院を見据えたり。梅の君の襟を握る手はなおも力こぶを浮かべておりぬ。
静まり返った一瞬――灯明がゆらぎ、ふたりの影が重なり合うその狭間に、清涼院の君の声音が、ひときわ静かに、けれどもはっきりと響きわたった。
「この方に、手を上げる道理など、何ひとつございませぬ、どうかその手を解かれませ」
その言葉はまるで、闇の中にともる灯のように、静けさと凛然を宿しておりき。
男の荒ぶる手にて梅の君の襟を掴まれし折、その場を包む空気すら凍りつきたる中、清涼院の君は一歩、静かに近づき給うた。
その身は華奢にて、衣の袂もふるふほど細く、腕はまるで冬木の小枝にも似たる風情なれど――
されどその手は、男の粗き腕をしっかと掴み止め、瞳は炎の如く鋭く、力強く相手を見据えておりき。
「もう一度、唱えますか」
その声音、決して大きくはなけれども、しずかに、されど確かに男の心奥を刺し貫くほどの威を帯びていたり。
体格は雲泥にてあれども、ひるむ気配は微塵もなく、まさしく風に抗いて咲く花のごとく、清涼院の君はその場に凛と立ち給うた。
男の眉根がわずかに動き、まなざしに迷いの色を帯びしかば、御簾の内にただ、緊張と静寂とが交錯しぬ。
沈黙の帳は、御簾の内を固く包みたり。あらゆる音が止み、灯明の炎すらも揺れを控えたるような、張りつめし気配が場を覆いておりぬ。
そのとき
清涼院の君は、男の腕をいまだ掴みしまま、面を真直ぐに上げ給いぬ。瞳には静けき怒りと、深き決意の翳りがやどり、その唇がわずかに動き始めたり。
「この子のためなら、どれほどの辱めを受けようとも、わたくしは恐れはしません。
わたくしは、この子を守ると心に決めて、生きてまいりました。
まさか、あなたはこの子を湖に沈めようとお考えなのでしょうか……
それなら、恐れながらも、はっきりと申し上げます。
そのような御考えが、まことの道とは到底思えませぬ。
たとえ世が乱れ、神々の声が途絶えたとしても、この子を贄とすることなど決して認められません。」
「もし“誰でもいい”というのなら……
わたくし、清涼院がこの身を差し出しましょう。腹を切り、この子の代わりとなってみせます。」
声音は高からずとも、帳の内に凛と響き、誰ひとり息を呑むのを忘れしほどなりき。その言の葉には、憂いも怒りも、そして何よりも、誰かを守らんとする意志が宿っておりぬ。
男はその声にたじろぎ、わずかに手の力を緩めしが――それでもなお、場は動かず、ただ、ふたりのまなざしのみが交差していたり。
灯の影、ゆらりと清涼院の袖を這い、夜の深き底にひとすじの気を刻みぬ。
「お辞めくださいませ、清涼院さま」
その叫びは、御簾の外より次々と押し寄せ、女房たちの慌てふためく声が渡殿を満たしたり。足音は乱れ、衣擦れの音さえも悲鳴のように響きて、誰かが袖を振り払う音、誰かがうずくまる声が交錯せり。
「どうか、それ以上は…お控えくださりませ…」
声の主は涙にむせび、幼き童女のように泣き叫ぶ女房もあり、廂の柱にすがりて声を張り上げる者もまたありけり。
それらの声と混じりて、静謐なるべき御殿はひどく乱れ、まるで雷鳴に打たれしかの如き騒擾に包まれたり。
そのさまは、あたかも心荒ぶる春の嵐が、花の下に吹き抜けたるがごとく、誰もがただただ心の行く先を見失いし光景にてありき。
そして、その混乱の中心に、清涼院の君はなおも毅然と立ち給うて、瞳の奥に何か深く決したるものを湛えておわしました。
混乱冷めやらぬ御殿の内、人々の声はなおも散り乱れ、悲鳴と泣きの響きが空を覆いし折
その場の一隅より、誰かが低く、されど確かに呟き給うた。
「…私も、行こう。」
その声に振り向けば、立ち現れたるは兼正の君なりき。
いつもの気高さはなく、ただ深き影を帯びたる面差しにて、肩を落とし、沈むがごとく立ちつくしておられたり。瞳は遠くを見据えながらも、どこか己が内をすでに超えたような、諦めと静けさの色を湛えていたり。
その姿を目にした清涼院の君は、さながら時の針を止められたるがごとく、目を見張り給うた。
「…兼正さま……」
声は風に溶けるように細く、胸の奥にざわめきが広がるばかり。
けれど、兼正の君はただ微かに首を横に振り、
「もうよいのです。すべてが、終わるべきところへ向かうだけのこと」
と、言の葉ひとひら、落ちる花のように吐き給うた。
その言葉に、場の騒ぎすら一瞬遠のき、ふたりの間に深くて静かな間が流れぬ。
騒めきいまだ収まらぬ御殿の一隅にて、清涼院の君はひとたび顔を伏せ、そっと袖にて頬を拭い給うた。
涙のあとを拭いしその面差しは、もはや揺らぎを秘めることなく、冷たき水面のごとく澄みきり、瞳には深き決意の色がさしにけり。
そして、男の前に進み出でて、まなざしをまっすぐに合わせ給う。
「…この身が、いかなる罪を負うとも、もはや恐れはいたしませぬ。ただ、清が望むものが復讐にあらば、その先に何も残りませぬ。」
声は静けくも、底に凛たる響きを宿し、騒がしき場の気配すらひととき鎮まりぬ。
「わたくしは、逃げませぬ。ただ、その手を振るうことが、お心の傷を癒すものならばどうぞ、わたくしを裁かれませ。」
「自らの命をもって、お詫び申し上げる覚悟でございます。」
言の葉一つひとつに重みありて、女房らはまた声もなく、ただその背を見守るばかりなりき。
清涼院の君の立つその姿は、まるで夜を裂く白梅の花のごとく、静けさのうちに清らかなる気魄を放っていたり。