テラーノベル
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その夜のこと、誰そともしれぬ者、声をふるわせつつ、泣きながら歌を詠み給うた。
その声、あまりに細く、あまりに切なく、耳に入るたびに胸を締めつけるがごとし。悲しみの旋律は、ただその者の身より零れ落ち、春の雨にも似たる響きをもって、帳の内をそっと満たしたり。
我は、その場にてひたすら立ち尽くし、何ひとつ声をかけること叶わず。袖を動かすことすらためらわれ、ただその歌声に心を奪われたるまま、じっと見つめるのみなりき。
「二人を、助けてやりとうございました…」
その思いは確かに胸を満たせども、声にはならず。心の奥底に沈みし悔ゆる念ばかりが、泡のように沸き立ちぬ。
最も近きところに在りながら、最も遠き者のように思われてならぬ――その思いが、ひたすら我を責め立てたり。
「そなたらが語り合いしとき、我は…どこにいたか」
春の夜は深まり、花の香も色あせぬなか、歌声だけがなおも細く、遠く、闇に吸われてゆきけり。
都のかたすみに、春もなかばの霞たなびくころ、我はただひとり、廂のもとに立ち尽くしぬ。
遠く、灯のように小さくなりゆくふたりの影。 その背は、まるで都の底、音なき淵へと沈みゆくかのごとく、やがて視界の中より消え入りたり。
「…清…」
名を呼べども、返る声はなく、ただ風が廊を吹き抜け、簾を震わすばかりなりき。二度、三度とその名をかさねしも、応えるべき影はもはやあらず。
「もし、この身が沈みゆくべきものであったならば…」
そんな思いが胸を満たし、喉奥に熱きものこみ上げ、知らず涙が頬をつたいて落ちたり。袖に拭わんとする間もなく、春の空さえかすみて見ゆる。
最も近くにありしはずの我が、何ひとつ救えなんだ――
思いは言の葉にあらず、ただ心の奥底に沈みてなお、なお疼き、消えやらず。
庭の隅に咲くは白き一輪の花。誰が植えしや、今は知らねど、その花さえ、名を呼びかけるようにふるえておりき。
ふたたび唇より洩らした名は、空に溶け、返る声もなく、ただ風が草葉を撫でてゆくのみ。涙はとうに拭うを忘れ、頬をつたうたびに、心の奥底をかすかに刻みぬ。
「いったい、どの瞬間に、ふたりは手の届かぬところへ行ってしまったのか」
(助けられるはずであったものを、見ているだけでしかなかったとは……)
悔いは重く、後悔は鋭く、胸を沈ませ、足もとの地さえ頼りなく覚えたり。
それでも。
誰かの歌った悲しき調べが、まだ耳奥に残りて、まるで亡き人々の声のように、我が心を呼びつづけていた。
(願わくば、そなたらがこの都の底に沈むことなく、いつか光のほうへ向かうことあらば)
その想いだけが、今の我を支える柱となりぬ。
庭の片隅、早くも夏草が萌え出づるのを、我はただ、静かに立ちつくして見つめおりき。
ふと、目線を横に移し給えば、そこにひとり、我よりも深き悲しみに沈みたる者の姿ありき。
名も知らぬ武士のごとき若き者なれど、その面差しは涙に濡れ、喉を震わせながら声を振り絞り叫びぬ。
「清涼院さま…兄上…」
その叫びはあまりにも痛々しく、風を裂いて空に届かんばかりなりき。
声の節は乱れ、嗚咽に途切れながらも、何度も何度もその名を呼び続けるさまは、胸を裂かれるように哀しく、聞く者の心を強く揺らしぬ。
我はただ、その姿を見つめることしかできず、声も動きも忘れたるごとく、立ち尽くしおりき。
(そなたのような嘆きを、なぜ我は知らずにいたか)
(あれほど近くにいたはずの我は、何を見て、何を失い得しや)
静まり返りたる空気のなか、その者の泣き声だけが、都の底を揺らすかのように高く、そして儚く響き続けていた。
頬をぬらす涙はとどまることを知らず、袖をも濡らして、我が面持ちは見るも無残に乱れおりき。
それを見とめたる梅の君は、ふと視線をやりて、小さく息を洩らし、やがて口もとにやわらかき笑みを浮かべ給うた。
「まこと…そこまでお泣きあそばすとは、少々やんごとなき御姿にございますな」
と、からかうでもなく、あたたかき声音にて申されぬ。その笑みは憐れみとも異なり、どこか包み込むようなる気配を帯びておりき。
我は言葉もなく、ただそのまなざしに見返されしばし、やがてかすかに眉をゆるめ、涙の奥にわずかなる息を継ぎぬ。
梅の君はそっと袖を差し出し、
「拭いましょうぞ。…されど、泣くもまた、人の花にございます」
と、やさしき言の葉を重ね給うた。
廂の外では、風もそよぎを和らげ、鳥の声すらひそやかに響きて、ふたりの間に、しずけき和らぎの時が流れたり。
「それにしても……なんなんだ、お前は……」
「……そんなふうに言っていいのかな、その口ぶりで。
だってあの清涼院さまが、我の母なんですよ。 本当にあの方が、我の母なんです。」
朝の光もまだ柔らかきころ、御簾の内にはほのかなる香をたたえ、風のそよぎも甘き調べを運びけり。
その折、梅の君は、ふといたずらめいた笑みを唇の端に浮かべ、座するそなたのかたわらに寄りて、袖を小さく揺らしつつ囁き給うた。
「まこと、昨夜のこと、夢にてうわごと申されしと、女房どもが申しておりましたが」
その言の葉、真偽はともかく、語り口には戯れの気配ありき。
思いがけぬ話に面を紅らめ、まなざし揺らすその様子を、梅の君は横目にとらえ給うて、くすくすと声をひそめて笑い給うた。
「そんなに驚かれては図らずとも、我愉快に存じてしまいまする」
その笑いは、春の花弁をふるわす微風のごとくやわらかに、帳の内に淡く満ちて、ふたりのあいだに咲きそめた、親しきあたたかさをそっと照らしたり。
都の西方、夕霞うすくたなびく頃、ふたりは人知れず佇みて、遠く低き谷のごとき場所を見下ろし給うた。
そこは、かつて多くの者の栄えと痛みとが交差し、今や人も姿を絶え、風ばかりが過ぎる寂しき地なりけり。
ふたりはそこに向かいて、静かに額を垂れ、掌を合わせて祈りを捧げ給うた。
――落ちていった者たち。
――名を呼んでも応えぬ人の面影。
想いは尽きず、胸に去来するは悔いと慕情と、まだ言葉にしきれぬ痛みの数々。
そのさなか、ひとりが涙を落とし始めたり。ぽろ、ぽろと、袖を濡らすことをも忘れて、ただ目の縁よりこぼれ落ちぬ。
されどふたりは、祈りを辞めず、ただ静かに、いとしき者らの名もなき魂へと思いを馳せつづけたり。
風は淡く吹き抜け、草葉をゆるやかに揺らし、誰かの声を運ぶように、そっとふたりの髪を撫でぬ。
都の底より響くものなき響きに、ふたりは深く頭を垂れ
やがてその祈りは、誰が聞くとも知れねど、確かに空へと昇ってゆきけり。
「清、最期の時まで本当に美しい人であったの。どうか達者で」
「兼正…次こそは、もう少し素直になれたら……」
その折、我がかたわらに座す者は、しきりに遠くを見やりながら、胸奥に秘めし思いを言の葉に託し始めたり。
「…清の御方は、ただひと目見れば忘 れられぬお人にて」
と、ふと呟くその声音には、どこか夢路に遊ぶごとき柔らかき色が差し、袖を撫でる手もまた、何かをたぐり寄せるようにゆるやかに動きぬ。
我はその言葉に、はたと眉を上げ、横目にてその面を窺いしに、まなざしは霞の彼方に向けられ、微かに笑みを帯びておりき。
「おそらく…この恋は、知られずに終わるのでしょうな。それでも、かまいませぬ。ただ、想うことが…私の生でございまするゆえに。」
そう申すその者の声は、まるで春の終わりに残りし風のように、あたたかくも切なく響きたり。
我は言葉を失い、その傍らに座しながら、ただ沈黙のうちに、その恋の儚き光を見つめておりぬ。
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