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第1話「ふたりの夏がはじまる」
森の道は、まるで誰かが描いた絵の中にあるようだった。
木の葉の影が、ナギの足元をゆらゆらと染めていく。
彼女は静かに歩いていた。
小さな自由帳を片手に、もう片方の手には削りかけの鉛筆。
くせ毛の入った肩上の髪が、風のない空気にふわりと揺れていた。
ふと、道が開けた。
そこは、地図にない“町”だった。
屋根はどれも低く、家々はつくりかけの模型のように並んでいた。
空は、ほんのり水色。けれどどこか濁っていて、遠くの雲が形を変えることはなかった。
風鈴が鳴っているのに、風は吹いていない。
それでも、草は揺れていた。
その町のまんなかに、ひとりの少女がいた。
「……あれ?」
ナギの声に、少女がこちらを向く。
長い髪をゆっくりと持ち上げた風が、その子のワンピースをほんの少しだけ揺らした。
クリーム色の古びた布地。首元には、今では見かけないようなレースの飾り。
その姿は、どこか透けているようで──でも、はっきりとそこに立っていた。
「こんにちは」
声は柔らかく、だけど響き方が妙だった。
まるで水の中で誰かがしゃべっているような、空気の反射のような。
「あなたの名前は?」
そう聞かれて、ナギは少しだけ考えてから、静かに答えた。
「ナギ」
少女はにっこりと笑った。
その笑顔は、たしかに優しかったけれど、ほんの少し“なにかを忘れている人”のようでもあった。
「じゃあ、わたしはユキコ」
ナギが名乗ってもいないのに、彼女はそう続けた。
「ここのこと、よくわからないと思うけど……でも、ナギならきっと大丈夫」
そう言って、ユキコはポケットから小さな手帳を取り出した。
手帳の表紙には、にじんだインクでこう書かれていた。
「イベント帳」
中を開くと、30個の空白の欄。ひとつひとつに「スタンプ欄」がついていた。
「これを全部うめると、きっと出られると思うんだ」
出られる?
ナギは聞き返そうとしたが、口を開く前に──風が吹いた。
さっきまで止まっていた草が、ざわりと鳴った。
そして、どこかの遠い夕陽が、二人の影を長くのばしていた。
「夕陽、きれいだね」
ユキコが言う。
ナギはうなずく。けれどそれが、今日何回目の夕陽なのかは、もうわからなかった。
薄く浮かぶように1日目のスタンプが押されていた。