テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
2
#ドライ
1,898
#勇者
りな
120
魔王城から王都までの距離を、勇者はわずか数十分で踏破した。 通常の騎馬であれば、険しい峠を越え、魔物の潜む森を抜け、一週間はかかる道のりだ。しかし、彼女が発動させている風属性魔法[浮遊]に、大気を強引に圧縮して推進力に変える加速魔法を組み合わせた超高速飛行は、もはや生物の移動という概念を超越していた。
「……見えてきたな。やっぱり、やってる」
眼下に広がる王都の夜景。しかし、そこにあるべき平和な灯火は、不吉な朱色に塗りつぶされていた。 王都を囲む三重の巨大な城壁のうち、最も外側の第一障壁はすでに無残に突破され、あちこちから黒煙と火柱が上がっている。
上空から見れば、それは蟻の巣をかき回したような惨状だった。 逃げ惑う民衆の悲鳴。それを執拗に追い回す、魔王軍の残党にして精鋭たち。彼らは主である魔王の死を知ってか知らずか、あるいは死の間際に下された呪いのような命令を忠実に実行しているのか、壊れた機械のように破壊を繰り返している。
「はぁ。これ、サービス残業って言うんだよ。魔王サマ」
勇者は高度数千メートルの空中でああ一度停止し、冷たい夜風に吹かれながら、眼下の戦場を見下ろした。 彼女にとって、この光景は悲劇というよりは、むしろ片付け忘れたゴミに近い。本来なら、魔王を倒した時点で自分の契約は満了しているはずなのだ。
だが、ここで王都が落ちれば、約束の報酬(金貨一万枚と隠居用の領地)を支払う主体が消えてしまう。それは彼女にとって、死活問題だった。
「はあ、一気に終わらせるとでもするか……[星屑の雨]」
勇者は指先を無造作にパチンと鳴らした。 瞬間、彼女の背後の空間が歪み、数百、数千という極小の幾何学的な魔法陣が、まるで万華鏡のように展開される。
それは、美しくも残酷な処刑の準備だった。 魔法陣の一つ一つから、針のように鋭く、流星のように輝く光の礫が放たれる。 光の雨は、意志を持っているかのように複雑な軌道を描いた。逃げ惑う人間や、歴史ある建造物を巧妙に避け、魔族の急所だけを正確に、そして冷酷に貫いていく。
一瞬前まで勝ち誇り、民を蹂躙していた魔族たちが、反撃の暇も、悲鳴を上げる余裕すらなく、次々と物言わぬ骸へと変わっていく。 地上で戦っていた騎士たちは、突如として空から降り注いだ救済の雨に呆然とし、ただただ剣を握り締めたまま立ち尽くしていた。
勇者はその光景を一瞥もせず、弾丸のような速度で下降し、王城の最上階にあるバルコニーへと真っ直ぐに降り立った。
「……勇者、様……? 本当に、勇者様なのか……?」
バルコニーには、震える手で古びた聖剣を握り、愛娘を背に隠した国王が立っていた。近衛騎士たちも、あまりの展開の早さに腰を抜かしている。 勇者は着地すると同時に風の衣を解き、面倒くさそうに乱れた前髪をかき上げた。紅い瞳には、勝利の昂揚感など微塵も浮かんでいない。
「魔王は殺しました。今、下の連中もだいたい片付けたところです。これで文句はないですね、陛下」
「お、おお……! 何ということだ…! 信じられぬ。あの、世界を絶望に染めた魔王アステリオスを、たった一人で……」
「報告は以上です。実働時間は予定より長引きましたが、特約通り、報酬の金貨一万枚と、北方の隠居用の領地。それから、今後一切の登城免除と公務の拒否権。早急に書類の手続きをお願いします。私は一秒でも早く寝たいんです」
あまりにも事務的な、英雄らしからぬ言葉。 国を救った救世主の口から出たのは、労務規定を確認する労働者のようなセリフだった。国王は呆気にとられ、口をパクパクとさせている。
「あ、いや……しかし、祝宴の準備も……」
「祝宴なんて出ても給料は出ないでしょう。そんなことより、私の部屋に最高級の毛布と、静かな環境を用意してください。話はそれから……」
言いかけた勇者の言葉が、ふと止まった。 彼女の視線は国王を通り越し、遥か彼方、自分が飛んできた魔王城の方角の空に固定されていた。
「……? 変だな」
「ど、どうしたのだ、勇者よ。顔色が悪いぞ」
「……魔法の残滓が、消えていない」
勇者の脳裏に、魔王城の最奥で見た光景がフラッシュバックする。
玉座の背後に浮かんでいた、あの魔法の円環。 城下の惨状ではなく、透き通るような美しい星空を映し出していた窓。 魔王が死に、術者が消えれば、魔法というものは霧散するのが理だ。特に、あれほど大規模な空間干渉魔法であればなおさら。
だが、彼女の鋭敏な魔力感知は、遠く離れたあの場所で、依然として巨大な魔力が脈動しているのを感じ取っていた。
『お前が……例の、勇者か?』
『予想外に小さかったというか……』
魔王が死の間際に漏らした、あの情けない困惑。 勇者はそれを、単に自分の体格が少女であることへの驚きだと思っていた。だが、もしそうではなかったら?
「……陛下。一つ確認したいんですが」
「な、何だ?」
「この世界に魔王が一人だけだと、誰が決めたんですか?」
勇者の問いに、国王が答えを出すよりも早く。 王都の真上、夜空を覆う雲が、巨大な渦を巻いて割れた。 そこに出現したのは、魔王城にあったものと同じ、しかし数倍の規模を持つ魔法の円環だった。
そこから溢れ出したのは、先ほどの魔王とは比べものにならないほど濃密で、洗練され、そして一切の慈悲を排した――神に近い絶対的な魔力。
円環の中から、一つの声が響き渡った。 それは魔王のような野蛮な響きではなく、複数の男女の声が重なったような、奇妙に澄んだ合唱だった。
『――観測個体アステリオスの消滅を確認。規定に基づき、地上の掃除を開始する』
円環の向こう側に映し出されたのは、美しい星空ではない。 無数の、それこそ数えきれないほどの魔王級の魔力反応が、整然と整列している異様な空間だった。
勇者は、深いため息をついた。 その溜息には、恐怖ではなく、心底からの嫌気が詰まっていた。
「……最悪だ。連戦、それも長期戦の予感しかしない」
「ゆ、勇者よ! あれは何だ!? 空が、空が割れて……!」
パニックに陥る国王の肩を、勇者は落ち着けと言うように、あるいは諦めろと言うように、ポンと叩いた。
「陛下。報酬、三倍にしてください。あと、領地には温泉も付けてください。……じゃないと、やってられません」
彼女は再び、鞘から長剣を抜いた。 刀身に白と紅の魔力が、今度は先ほどよりも激しく、唸りを上げて収束していく。 空に浮かぶ巨大な魔法陣を見上げる彼女の横顔は、やはり英雄のそれではなく、不当な残業を押し付けられた、不機嫌な専門職のそれだった。
「さて。掃除を始めるのは、こっちのセリフだ。……仕事の邪魔をする奴は、神様だって死ね」
勇者は地面を蹴り、再び夜空へと舞い上がった。 彼女が夢見る穏やかな隠居生活への道は、どうやら今、本当の意味で始まったばかりだった。
コメント
1件
うわぁ…これ、めっちゃ刺さるやつだ🥀 勇者、魔王倒してもサービス残業って、ブラックすぎるでしょ(笑)でもそういう現実的な妥協点が逆に好き。あの「報酬三倍+温泉付き」の交渉、最高すぎる。仕事終わらせたのに次から次へと湧いてくる敵、読んでてこっちも疲れてくるけど、勇者の姿勢に共感しちゃうよ。 そして何より、空から現れた円環の中の「掃除開始宣言の合唱、めっちゃ怖い…。まだ終わらない感じが、続きが気になりすぎます。新作ありがとうございます、ちゃんと受け取らせていただきました🤍