テラーノベル
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彼女の差し出した缶コーヒーを俺は受け取った。そのまま彼女は俺の横へ座った。
どこからか聞こえる子供とその母親の声がどうにも毒々しい。昼間の公園はその騒がしさとは裏腹に、寂しさを孕んでいた。いや、それはこの場所ではなく、俺自身の方か。
「私、本当は地下アイドルになりたかったんだ」
彼女は突然と、そう口にした。
「幼いころに、偶然おすすめ動画に上がってきてね。初めてそれを目にした時には、もう既に自分がその横に立つ想像だってできた。それから、アイドルという職へのあこがれが芽生えた。たくさんの光を受けるその人たちは、誰よりも自らで輝いているように思えた。まるでそこにだけは、綺麗事ってやつが存在するように」
「なんで、アイドルにはならなかったんですか?」
プルタブすら開けることなく聞いた。それを握る右手に自然と力が加わる。
「両親の反対が強かったのと。その夢を持つには、私が少々優秀すぎたからだね。自慢じゃないが、成績は通っていた進学校の中でも割と上位だったし、心理学や哲学は特に勉強もしていなくとも、既に大抵理解できていた。つまりは、この現代社会において奪う側の生き方をし過ぎたんだ。とてもじゃないがステージに立っていいような存在じゃない。そう思った」
それらの苦悩を流すように、彼女は缶コーヒーの苦みを味わった。唇を話した際の、息の冷たさは触れなくともわかった。
「本当の久我君は何になりたかった? 君が普段、君じゃないことくらいは私にもわかる。いい後輩っていうのは上司に相談の一つはするものだよ」
「俺は」と言い始めたところで言葉が止まった。他人に自分を見せるという事が、これほどまでに恐ろしかったとは。
いや、もともとはこれだってできた。だが、やはりあの瞬間に俺は一度死んだのだ。少し話そうとするだけで、体が恐怖に震えた。本当の自分。本当の自分とは一体何だ。肝心な部分の脳肉は蛾に食われてしまってて機能しない。呼吸が空回りし、正しく酸素を拾い上げてくれない。ない、ない、ない。
本当を取り戻そうとするたびに、何もかもが欠けてしまっている事をただ覚える。食道を通って上がってくる胃酸だけが確かに存在している。
もう何日も飯を食えていない。美蘭の作る飯がなぜかのどを通らないのだ。昼食は捨て、それ以外はトイレで吐き捨てている。
夜だって眠れているようで常に覚醒してしまっていて、ここ数日は五十メートルは離れたところにあるはずの大通りを通る車のエンジン音さえ聞こえてしまう。もう、この身は完全に本当とは違った何かへと変身してしまっている。
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