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東屋 朧
蒼乃(キャラボ中〜!)
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孤児院の門扉が閉まる音が、夕暮れの住宅街に小さく響いた。西の空がじんわりと橙色に滲み始めている。雲の薄いところから光が漏れて、瓦屋根の連なりがその色を受けて鈍く光っている。風は穏やかだったが、日が傾くにつれて空気の底に冬の冷たさが混じり始めていた。
遥は門扉の前で一度だけ立ち止まり、孤児院のプレートを見た。
小夜が描いたロゴが夕光の中に沈んでいる。複雑に絡み合う線が、この角度から見ると、少しだけ違う形に見えた。螺旋に見える時もあれば、何かが解けていく瞬間に見える時もある。本人がそれに気づいているかどうか、遥には分からない。
小夜は既に歩き始めていた。
遥はプレートから目を離し、その後を追った。
二人は住宅街を並んで歩いた。
会話はなかった。しかしそれは沈黙ではなかった。遥と小夜の間にある静けさは、埋めなければならない種類のものではない。互いの足音だけが、夕暮れの路地に刻まれていく。
しばらく歩いたところで、小さな公園があった。
遊具は古い。錆びたブランコが二台、風もないのに微かに揺れている。砂場には子どもの姿がなく、隅のベンチだけが、夕光を真正面から受けて橙色に染まっていた。街路樹の葉は半分ほど落ちていて、残った葉が光を透かして揺れていた。
小夜の足が、公園の入口で止まった。
「……寄っていい」
質問ではなかった。
「ああ」
遥が短く答えると、小夜はベンチへ向かった。
ベンチに腰を下ろした小夜は、コートのポケットから煙草を一本取り出した。遥と同じ銘柄。強いタールの匂いがするやつだ。唇に咥えてから、ポケットを探り――止まる。ライターを持っていなかった。
小夜は横に座った遥を見る。無言でも遥にはすぐ伝わった。ジッポライターをポケットから取り出し、同じく無言で小夜に手渡す。
小夜はライターを受け取り、蓋を開けた。
カチャッ、という硬質な音が鳴る。オレンジ色の炎が立ち上がり、夕風の中で一度だけ揺れてから安定した。小夜は煙草の先端を炎に近づけ、深く吸い込んだ。紫煙が細く立ち上り、夕空に溶けていく。
小夜はライターの蓋を閉めた。
そのまま、自分のポケットへ仕舞った。
「……返せ」
遥が言った。
「やだ」
「俺のだぞ」
「知ってる」
小夜は煙草を指に挟んだまま、前を向いていた。ブランコの方を見ているのか、その向こうの夕空を見ているのか、判然としない目で。
「返せ、小夜」
「……返さない」
小夜がぽつりと言った。
「これはもう、あたしの」
遥は少しだけ目を細めた。呆れたような、しかし咎める気にもなれないような、その中間の表情だった。煙草を取り出して唇に咥えたが、ライターがない。ポケットを探っても、当然ない。
「……火がない」
「知ってる」
「だから返せと言ってる」
「やだ」
小夜は前を向いたまま、煙草を一口吸った。紫煙を細く吐き出す。それから少しだけ間を置いてから、遥の方へゆっくりと顔を向けた。
目が合った。
小夜の黒い瞳が、夕光を受けて僅かに橙色を帯びていた。シルバーピアスが、同じ色の光を冷たく反射している。
小夜は無言のまま、ベンチの上で遥の方へ身体を向けた。煙草を指に挟んだまま、片膝をベンチについて、遥との距離を詰める。
「小夜――」
言いかけた遥を遮るように、ふっと小夜が迫る。彼女の咥える煙草が、彼の咥えた煙草の先端に触れた。そのまま小夜は動かず静かに、しかし深く吸い込んだ。煙草の先端が赤く灯る。十分に火が移ったことを確かめてから、小夜はゆっくりと身体を引いた。見ると、遥の煙草に火がついていた。
「……」
遥は数秒間、何も言わなかった。小夜は何事もなかったように前を向き、自分の煙草を一口吸った。白い糸を夕空に向けて、細く、ゆっくりと吐き出す。ピアスが夕光に揺れた。
「……お前な」
「なに」
「普通に返せばよかっただろ」
「こっちの方が合理的」
「どこが」
「ライター要らないから」
小夜は淡々と言った。遥は短く息を吐いた。呆れの色が半分、それ以外が半分、というような吐息だった。
二人分の紫煙が、夕暮れの公園に細く立ち上っていく。ブランコが、風もないのにまた微かに揺れた。街路樹の残り葉が、橙色の光を透かして静かに揺れていた。
遥は煙草を一口吸い、夕空に向けて吐き出した。
「孤児院、また来るか」
「……気が向いたら」
小夜は少しだけ間を置いた。
「……あのお菓子、美味しかった」
「そうか」
「次は塩気のあるやつがいい」
「慧に言え」
「遥が言って」
「なんで俺が」
「……遥が言った方が、作ってくれると思うから」
遥は小夜を横目で見た。小夜は前を向いたまま、煙草を指に挟んで、夕空の一点を見ていた。その横顔に、日の残りが橙色を落としている。
遥は短く息を吐いた。
「善処する」
「……ありがとう」
小夜が言った。感情の色のない声だったが、その感謝の五文字だけは、ほんの少しだけ違う温度を持っていた気がした。
二人は煙草が燃え尽きるまで、それ以上何も言わなかった。
やがて携帯灰皿に吸い殻を仕舞い、ベンチを立った。夕空の橙色は既に薄れ始めていて、その縁から夜の青が滲み出していた。二人分の足音が、夕暮れの住宅街に静かに刻まれていく。
⬛︎
下北沢に差し掛かったのは、日が完全に落ちる少し前だった。
駅前から続く細い路地には、古着屋と小さな飲食店と雑多な看板が、肩を寄せ合うように並んでいる。平日の夕方にもかかわらず、若い人間の往来が絶えない。遥はこの街の密度の高さが少し苦手だったが、文句を言うほどではなかった。
小夜の足が不意に緩んだ。視線の先を追うと、路地の一角に小さな楽器店があった。店構えは古い。木製の引き戸に色褪せたステッカーが幾枚も貼り付けられている。ガラス越しに見える店内には壁一面にギターが掛けられていて、間接照明の温かい光がその木目を照らしていた。入口の脇には手書きの黒板が置かれており、”【RAVENS NOTE】本日入荷! ビンテージ弦(数量限定)”と書かれている。その黒板を、小夜の目がじっと捉えた。
「弦か」
遥が言うと、小夜は少しだけ間を置いてから答えた。
「……切れかけてた」
「入るか」
「……いいの?」
「ああ」
小夜は遥を一度だけ見上げて、それから引き戸へ向かう。
店内は、外観より広かった。天井まで届く壁面にギターが整然と掛けられ、床にはアンプやエフェクターのケースが並んでいる。奥にはベースやウクレレのコーナーがあって、その手前のガラスケースには弦やピックが種類別に並べられていた。古い木材と油と、微かな埃の匂いが混ざり合った、楽器店特有の空気がある。有線から流れているのは、遥には聞き覚えのないインストのギター曲だった。
カウンターの奥に女が一人いた。毛先が紫のハーフアップ。幼い雰囲気の顔立ちに、チョーカーとピアス。はだけたガウンコート下の黒いタンクトップから覗く腕は細く、しかし動き方に無駄がない。彼女は在庫の確認をしていたらしく、顔を上げた瞬間、ごく自然な笑顔を向けてきた。
「いらっしゃい。何かお探しですか」
神崎栞。その笑顔には、接客業のそれとは少し違う、もっと個人的な温度があった。
「弦を見たい」
小夜が言った。栞の視線がそちらへと向く。一瞬だけ、何かを測るような光が過ぎった――しかしそれはすぐに、穏やかな笑顔の奥に仕舞われた。
「アコースティック? エレキ?」
「アコースティック」
「どのゲージ使ってる?」
「……ライト」
「メーカーはこだわりある?」
「……特に」
栞はガラスケースの鍵を開け、いくつかのパッケージを取り出した。小夜の隣に並んで、一枚一枚を丁寧に説明し始める。その距離が、接客にしてはほんの少しだけ近かった。
「この弦、張りたての鳴りがすごくいいんだけど……弾き込むほど馴染んでいくのが好きって人もいて。あなた、どっちのタイプかな」
小夜は少しだけ考えてから言った。
「……馴染んでいく方」
「そっか」
栞が目を細めた。本当に嬉しそうだった、というのが遥の印象だった。接客の笑顔ではなく、話が合った時の人間の顔だ。
その時だった。
「あーっ! お客さん来てたの!? なんで誰も呼ばないわけ!?」
店の奥から扉を勢いよく開けて飛び出してきたのは、金髪のツインテールだった。有栖川夢露。ブラトップにショートパンツ、ニーハイブーツ。その格好で冬を過ごしていることへの疑問を抱く暇もなく、彼女は遥を見た瞬間、爛々と目を輝かせた。
「うわ、めちゃくちゃいい男じゃん。ねね、お兄さん、ギター弾けるの? 弦見てるってことはそうだよね?」
「……俺のじゃない」
遥が視線で小夜を示すと、夢露は小夜を見て、また遥を見て、”ふーん”と言いながら遥の周りをぐるりと一周した。
「でも弦のある場所、ちゃんと分かって見てたくない? 弾けるでしょ」
「昔は少し」
「嘘くさい。その手、弦ダコあるもん」
夢露が遥の右手を躊躇なく掴んだ。指の腹を覗き込む。遥は特に抵抗せず、されるがままにしている。小夜の視線が、遥の手を掴む夢露の指に吸い込まれた。
「ねえねえ、どんなの弾くの? 教えてよ。あたし、うまい人の演奏聴くの好きなんだよね。ここにギターあるじゃん、一曲弾いてよ」
「遠慮する」
「えー、なんで!」
「人前で弾く趣味はない」
「ちぇー。じゃあせめて――」
店の奥から、今度は舌打ちの音がした。赤髪のウルフカット。ライダースジャケット。立華紅亜が、面倒臭そうに腕を組みながら出てきた。
「夢露……うるさい」
「だってお客さんがいるんだもん!」
「客商売なんだから当たり前でしょ」
紅亜は遥を一瞥してから、特に興味のなさそうな顔で壁のギターに目をやった。しかしその視線が、一度だけ遥の右手――夢露がさっき掴んでいた手――に止まったことを遥は見ていた。
「……その手の傷、ギターだけじゃないでしょ」
紅亜が言った。感情的な色のない、ただ事実を確認するような声だった。遥は彼女の方を見た。
「仕事柄な」
「何の仕事?」
「清掃業」
紅亜は少しだけ目を細めた。それから”なるほどね”と言って、また壁のギターに視線を戻す。その間――カウンターの奥の方で、もう一人控えていることに遥は気づいていた。
真っ白なロングウルフヘア。虚ろな目。天羽朔は、楽器のメンテナンス全般を担当しているのか、ギターのネックの調整をしながら、会話には一切加わらず、ただ淡々と作業を続けている。しかし――その手が、遥が店に入ってから一度も動いていないことを、彼は把握していた。
栞は小夜との会話を続けている。
「ギター、長く弾いてるの?」
「……兄のお下がりを、少し」
「お兄さんも弾くんだ」
「最近は弾いてない」
「もったいない」
栞が遥の方へ顔を向けた。
「弾いてあげればいいのに」
「……余計なお世話です」
小夜が平坦な声で言った。栞は目を丸くしてから、ふふ、と笑った。
「ごめんごめん。でも、ギターって誰かのために弾くと上手くなるって言うよ」
「……それ、本当ですか」
「本当かどうかは知らないけど――弾きたくなる理由ができると、続くのは本当だと思う」
小夜は少しだけ黙ってから、弦のパッケージをひとつ手に取った。
「……これにします」
「はい。いい選択だと思う」
栞がレジへ向かおうとした時、ふと足を止めて小夜を見た。
「また来てね。気に入ったギターがあったら、試奏もできるから」
小夜は答えなかった。しかし、その場を動かなかった。それが小夜なりの返事だということを、栞は不思議と理解したようだった。
その間も夢露は遥の周辺をうろついていた。
「ねえ、ほんとに弾かないの? ここのギター、どれでも使っていいよ。あたし、セッティングしてあげる」
「いい」
「えー。じゃあ、また来る?」
「さあ」
「さあって何。来なよ、絶対来なよ。ね?」
夢露が遥の腕に手をかけた。小夜の視線が、今度は鋭く夢露の手に向いた。声は出さない。出す必要がなかった。小夜は弦のパッケージを持ったまま、するりと遥の隣に移動し、夢露と遥の間に割り込んだ。
夢露は気付いて小夜を見た。小夜は夢露を見なかった。ただ前を向いたまま、遥の袖の端を、黒ネイルの指先で無造作に、しかし確実に掴んでいる。
「……彼女?」
微かに声を落として夢露が聞いた。
「妹だ」
遥が答えた。
「妹かー。でも妹にしては――」
「夢露」
紅亜が短く制した。夢露は”えー”と言いながらも、遥の腕から遠のいた。相変わらず小夜は何も言わない。遥の袖を掴んでいた指先を、ただゆっくりと離す。しかしその後、遥の隣から動こうとしなかった。
会計を済ませたのは栞だった。釣り銭を小夜に渡しながら、栞はもう一度笑いかけた。今度は最初よりも、もう少しだけ個人的な温度を含んでいた。
「ギター、大切に弾いてね」
「……はい」
小夜が答えた。遥には珍しく聞こえた。小夜が店員に”はい”と返事をするのは。引き戸に手をかけながら、遥は一度だけ店内を見渡す。夢露が手を振っていた。紅亜が壁のギターを眺めていた。栞がカウンターの奥へ戻っていた。そして白髪の朔だけが――ずっと同じ場所で、ずっと同じ姿勢で、ギターのネックを持ったまま、遥を見ていた。
目が合った。
一秒だけ。
朔の虚ろな目は何の感情も映していなかった。かえってそれが、遥の産毛を微かに逆立てる。遥は引き戸を開け、”小夜”と促し彼女を先に出した。
■
カラカラ、と店の扉が閉まり足音が遠ざかっていく。石畳の路地に二人分のそれが重なって、やがて雑踏の中に溶けていった。
さほどの時間もなく、店内に静寂が戻る。
最初に動いたのは夢露だった。ツインテールを揺らしながらショーウィンドウへ駆け寄り、去っていく二人の背中を目で追う。それから振り返った時の顔が、先程までとは少しだけ違っていた。
「……ねえ」
夢露が言った。陽気な声色が消えている。
「あの二人、なんか変じゃなかった?」
紅亜がライダースジャケットのポケットに手を突っ込みながら、壁のギターから視線を外した。
「変……ってどういう意味」
「なんていうか――」
夢露は眉を寄せながら路地の方を見た。もう二人の姿はない。
「普通じゃない。雰囲気が。特に男の方」
カウンターの奥で、栞が弦のパッケージを棚に戻す手を止めた。
「……気付いてた?」
「うん」
栞の声は穏やかだったが、その底に普段とは違う硬さがあった。
「最初から。あの子――女の子の方は、まあ分かる範囲。感覚の鋭い子なんだろうなって思った。でも男の方は……」
栞は言葉を探すように少しだけ間を置いた。
「気配の消し方が、普通の人間じゃあり得ない。訓練されていても無理。何て言うか……異様だった」
「だよね」
夢露が腕を組んだ。
「私もそれ感じてた。絡んでる間、ずっとこっちの動きを把握してた気がする。全部。目で追ってるとかじゃなくて――空間ごと、読んでる感じ」
「清掃業とか言ってたけど」
紅亜が短く言った。
「あの手の傷……それだけじゃない。関節の潰れ方が、人を殴ったり武器を扱う人間のそれだった」
誰も反論しない。それが答えだった。
ややあって朔がようやく口を開く。ずっと同じ場所で、ずっと同じ姿勢で、ギターのネックを持ったまま。しかしその手は、二人が入店してから一度も動いていなかった。
「……同業者だと思う。それも相当の」
静かな声だった。断定でも疑問でもない。事実を述べるような言い方。
「根拠は」
紅亜が聞いた。
「目。あの男の目――スイッチが入ってる人間の目だった。普段は意図的に落としてる。でもわたしと不意に目が合った一瞬、本物が出てた」
店内が静かになった。有線のギター曲だけが、変わらず流れている。
「どっちの側の人間かは分からない」
朔が続けた。
「依頼を受ける側か、裁く側か。ただ――何れにしても、深入りしない方がいい相手だ」
「……そうだね」
栞が静かに言う。それから少しだけ間があって、夢露が深く息を吐いた。
「分かってる。分かってるんだけどさ――」
夢露はショーウィンドウの方へ視線をやったまま、ぽつりと言った。
「……どうしよう。めろ、あの人に一目惚れしたかもしれない」
全員が夢露を見た。
「は」
紅亜が言った。
「真剣な話してたじゃん今」
「してたよ。今もしてる。それはそれとして……あの人、やばくない? めちゃくちゃ格好良くなかった? あの顔、あの手の傷、あの雰囲気――」
「お前、同業者かもよって話聞いてた?」
「聞いてた。でも関係ある?」
「大いに関係ある」
「あ、それとさ」
夢露はショーウィンドウから振り返り、本気の顔をしていた。陽気な表情ではなく、珍しく真剣な目だった。
「妹の子。お兄さんのこと見る目――あれ、家族に向ける目じゃないよ」
再び訪れる静寂。
「……それも気付いてた」
栞が言った。
「だから余計にやっかいなんだよね。あの二人、多分――かなり深いところで繋がってる」
「繋がってるどころじゃないと思うけど」
紅亜が壁のギターに視線を戻しながら言った。
「まあ、どちらにしても」
朔が静かに締めた。
「警戒を怠らない方がいい。それだけは確か」
夢露はしばらく路地の方を見ていた。それから両手で顔を扇ぎつつ、また”あー、ほんとやばい”と呟いた。今度は誰も返事をしなかった。
■
路地を曲がったところで、遥の足が緩んだ。それに小夜が気付いて振り返る。
「……どうしたの」
彼は路地の壁に背をもたせかけ、来た方向を一度だけ見た。楽器店の入り口はもう見えない。雑踏の音が普段通りに続いている。何も変わっていない。しかし遥の目から、眠たげな色が消え失せてていた。
「……遥」
小夜が一歩、近付いた。
「あの店の連中」
遥が静かに言った。
「同業者だ」
小夜は何も言わなかった。しかし目の色が変わった。
「全員?」
「ああ」
「楽器屋が表の顔ってこと」
「おそらく。それなりに本物だとは思うが――あの連中が店の営業だけで食ってるわけじゃない」
遥は壁から背を離し、弦のパッケージを持っている小夜の手に一度だけ目をやった。
「向こうも同様に気付いてるはずだ。俺たちが普通じゃないことくらいは」
「……敵なの」
「今はまだ分からん。ただ」
遥は路地の奥を見やった。
「”どちら側”かを調べる必要がある」
小夜は弦のパッケージを少しだけ強く握った。それから少しの間、遥の横顔を見ていた。
やがて、小夜が口を開いた。いつもより僅かに低い声。感情を押し殺しているのとも、ただ単に平坦なのとも少し違う声だった。
「……遥」
「ん」
「……さっきの人たち、遥のこと気に入ってたね」
「仕事上の警戒だろ」
「……」
小夜はパッケージを持ったまま、視線を路地の石畳に落とした。
「……金髪の人と、赤髪の人」
遥は小夜を見た。
「ああ」
「楽しそうだった」
「向こうがな」
「遥も、あんまり嫌そうじゃなかった」
「仕事中じゃないからな」
小夜は少しだけ黙った。夜の冷気が路地に降りてくる。街灯が一つ、石畳に丸い光の輪を作っている。彼女の黒髪が、その光の縁で微かに揺れた。
「……嬉しかった?」
小夜が言った。いつもの抑揚のない声だったが――その一言だけが、ほんの少しだけ、違う温度を持っていた。拗ねている、というには静かすぎる。しかし問い詰めているわけでもない。ただその言葉の奥深くに、小夜が普段は仕舞い込んでいる何かが、薄く滲んでいた。
遥は少しだけ間を置く。それから、短く息を吐いた。
「……別に」
「本当に?」
「お前がいるのに嬉しいわけないだろ」
小夜は顔を上げなかった。ただ、石畳を見ている。その頬が街灯の光の中で、ほんの少しだけ朱を落としていた。
「……そう」
僅かに納得するような響き。
「なら、いい」
彼女は弦のパッケージを抱え直し、先に歩き始めた。遥はその後に続きながら、ポケットに手を入れる。ライターがないことをまた思い出した。彼女のコートの中で静かに収まっているはずだ。二人の足音が夜の路地に重なり、雑踏の中へと消えていく。遥はもう”返せ”とは言わなかった。