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宝町を襲った火事のニュースは第一報だけ取り上げられると、芸能人のスキャンダルの続報にすぐに取って代わられた。
火事の原因は失火ということらしいが、隣り合わせでもない何軒もの家々が失火で燃えるだろうか。
何か肝心の情報が隠されているような気持ちの悪さを梨沙は感じた。
SNSでは、メディアとは違って、失火という報道を疑うような投稿を見かけたが、結局、誰も原因はわかっていないようだった。
……おかしなことばかりだ。
それもこれも、梨沙のありえない妊娠から始まったような気がしてしまう。
梨沙はお腹をさする。
ちゃんと息をしているだろうか。
不思議なことにお腹の子供を心配している自分がいた。
(……私はこの子を産みたいのだろうか)
梨沙にもわからなかった。
望まぬ妊娠には違いない。
だが原田先生が言っていたように生まれてくる子に罪はない。
どうすればいいのだろう。
いくら考えても答えは出なかった。
パソコンからオンラインミーティングの招待を促すコール音が鳴った。
その予定はない。
見ると丸山からの着信だった。
悩んだが、招待を受けるボタンを押した。
丸山の人懐こそうな顔を見ると、なんだか安心した。
「思ったより元気そうだね」
そう言って丸山は破顔した。
「全然連絡つかないからさすがに心配したよ」
丸山は軽い調子で明るく言った。
気を遣ってくれてるのだろう。
かえって申し訳ない気持ちもした。
「……すいません、何度も連絡もらっていたのに」
「いや、大丈夫大丈夫」
「でも、私……」
丸山の気遣いに対して何も返せる自信がなかった。
丸山に心を開いて打ち明けることはまだできそうにない。
「ちょうど俺昼飯食べるところでさ、食べてていいかな?」
「え?」
「別に何も話さなくていいから」
それから丸山は本当に、どこかで買った弁当の蓋を開けて昼食を食べ始めた。
丸山は梨沙の方を見もせずガツガツと弁当を食らっていく。
梨沙は丸山の食事の様子をただ眺めていた。
お互い何も話さない。不思議な時間が過ぎていった。
梨沙と丸山はネットワーク上で緩やかにつながっているだけだった。
それがかえって心地よかった。
緊張感もなく孤独でもない。
梨沙は心の奥ではずっと人との繋がりを求めていたのかもしれない。
「ごちそうさま、じゃ。また」
丸山は昼食を食べおえるとあっさりとミーティングを抜けていった。
翌日も丸山からお昼時にミーティングの招待がきた。
何を話すでもなくただご飯を食べる、そんな日が数日続いた。
「ちゃんと食べてる?」
「いえ」
「ちゃんと食べた方がいいよ」
「……はい」
交わすのはそんな他愛のない会話だけ。
しばらくすると、梨沙も昼食を用意して一緒に食べるようになった。
この2年、自炊などほとんどしてこなかったのに、久しぶりに料理をしてみるようになった。
栄養を取って体力つけないと。
そんなことを考えている自分もいた。
お腹の胎児のためなのか自分のためなのか、梨沙にもよくわからなかった。
それに、もう仕事は何も残っていない。
今は何をやっても不出来な成果物しかできない気がして全ての依頼を体調不良を理由に断ったのだ。
貯蓄は多少あるが先の展望は全く見えない。
でも、今は先の見えない未来のことを悩むより、目の前の穏やかな時間に集中したかった。
ご飯を食べる丸山を見ていると心が和む。
「きっかけ……」
丸山とのオンラインランチ中、梨沙の口から自然と言葉が漏れていた。
丸山は食べるのをやめて目を丸くした。
「きっかけあるんです、家を出なくなった」
梨沙は2年ぶりに自分の内面を言葉にしようとしていた。
ーーーー梨沙が岡部秀一と出会ったのは、前職の広告代理店時代だった。
あるクライアントの新商品発表の記念パーティーがホテルの宴会場を借り切って行われ、梨沙はPRプロジェクトの一員として参加していた。
芸能人やモデルなど華やかな人たちが多数参加して会場が盛り上がる中、梨沙はずっと所在なさげに飲み物片手に壁にもたれていたのだが、隣を見ると全く同じ状況の岡部秀一がいた。
それが2人の出会いだった。
岡部は大手広告代理店の社員で梨沙よりもっとプロジェクトの中心に近いメンバーの1人だった。
なのに壁の花と化していた。
聞くと、こういう派手な場が大の苦手なのだという。
仲間を見つけた2人は、会場を抜け出し、外の新鮮な空気を吸いにいくことにした。
話してみると、梨沙と岡部にはそれ以外にもたくさん互いに共感できるところがあって会話は途切れなかった。口下手な梨沙にとっては奇跡のような瞬間だった。
別れ際、次に会う約束をした。
互いの家を行き来する半同棲状態になるまで、あっという間の出来事だった。
それは梨沙の人生にとって間違いなく最良の日々だった。
岡部は寝物語によく梨沙に夢を語った。
いつか自分の会社を立ち上げてポケモンやサンリオに並ぶようなキャラクタービジネスに参入したいのだと。
成功すればキャラクターは権利者に莫大な利益をもたらす。
岡部は一介の勤め人で終わりたくないのだと語った。
梨沙からすると、少し夢見がちだと思うところもあったが、岡部の夢は梨沙の夢でもあった。
梨沙は協力を惜しまなかった。
寝る間もおしんで岡部のためにデザインや世界観のアイディアを練って作り込んだ。
そうして描いたキャラクターのラフスケッチは数千枚にも及んだ。
この先に明るい未来が待っていることを、その時、梨沙は微塵も疑っていなかった。
まだプロポーズこそされていないが岡部といずれ家族になるのだろうと思っていた。
岡部との間にできる子供はどんな子だろう。そんな夢想が現実になることを信じて疑っていなかった。
ところが、ある日のこと。
梨沙は手料理をタッパーにつめて岡部の自宅をサプライズで訪問することを思いついた。
連日の激務で疲れているだろうから労いたかったのだ。
少しでも岡部の助けになりたい。心からそう思っていた。
自宅マンション前にいくと、ちょうど岡部の姿があった。
だが、その傍らには梨沙の見知らぬ女性が寄り添っていた。
梨沙と同世代と思われる女性は明るい髪に濃いメイクをして、梨沙と正反対のタイプだった。
岡部に甘えるようにしなだれて腕をからませている。
岡部は呆然と立つ梨沙に気がつくと目を伏せて女性と腕を絡ませたまま歩き去っていった。
それが答えなのだと梨沙は悟った。
梨沙はタッパーを持ったまま家に引き返した。
タッパーの中身を捨てて洗い物をしながら、とめどなく涙がこぼれた。
それから1年ほどして、ひとづてに、岡部が立ち上げたキャラクタービジネスの会社が順調に軌道に乗り始めたようだと噂を聞いた。
調べてみたら岡部の会社で開発されたキャラクターは全て梨沙がデザインしたキャラクターだった。
アニメ、ゲーム、おもちゃと今後展開をしていく予定だとコーポレートサイトにリリースが出ていた。
岡部がはじめから梨沙のスキル目当てで近寄ってきたのかはわからない。
だが、結果的にただ梨沙は利用されて捨てられただけだった。
岡部への憎しみは計り知れないが、それ以上に、岡部を嫌いになりきれない自分が嫌だった。
たとえ偽物だったとしても、ほんの束の間、孤独を癒してくれた人だった。
だが、こんな裏切りにあうなら、もう誰とも関わりたくない。
その日から梨沙は家を出なくなった。
2年間引きこもるきっかけはたしかにあった。
梨沙の口下手な説明を丸山は「うん、うん」と聞いてくれた。
梨沙が全て話し終えると丸山は画面越しにしっかり梨沙の目を見て、「綿貫さんは悪くない、きっとその彼は報いを受けるんじゃないかな」と言った。
その言葉に梨沙の目から涙が溢れ出した。
梨沙のせいじゃない。
ずっと誰かに言って欲しかった言葉だった。
一度溢れ出した涙は梨沙の意志では止められなかった。
丸山は辛抱強く梨沙が落ち着くのを待って言った。
「でも、今綿貫さんが抱えているのはそれとは別の問題でしょ?」
丸山は見抜いている。
梨沙はようやく人に打ち明ける踏ん切りがついた。
「私、妊娠したんです……2年間引きこもってたのに」
梨沙は妊娠がわかってからの経緯も丸山に説明した。
怖くて丸山の顔が見れなかった。
「なるほど……それは確かに妙だ」
「……私がおかしなこと言っているって思わないんですか?」
「どうして?綿貫さんが嘘つく理由がないでしょ」
丸山は妊娠について梨沙をたしなめたり責めるようなことを一言も言わなかった。
「同じような事例がないか調べてみるよ」
丸山はそう言って梨沙に協力を約束してくれた。
なぜ丸山がそこまで気にかけてくれるのかはわからない。
うぬぼれるつもりはないが梨沙に多少、好意を持ってくれているのかもしれない。
いずれにせよ誰も頼れる人がいない今の梨沙にとって丸山は唯一頼りになる存在だった。
丸山とのオンライン通話を終えた時、梨沙は外からブーンという虫が飛ぶ音がするのを聞いた。
だが、虫の羽音にしては音が大きすぎる。
カーテンを開けると、梨沙の眼前にドローンが浮上してきた。
ドローンは数秒ホバリングすると、上空に舞い上がって、西の空へ飛び去っていった。
ドローンが現れた下方を見ると梨沙の家の玄関前に四角い箱が置かれていた。
さっきのドローンが荷物を置いていったのだろうか。
梨沙は1階に降りて玄関先の荷物を取りにいった。
荷物は50cm程度の正方形の真っ白い箱で大きな赤いリボンで包まれている。
あまりにもわざとらしく演出されたギフトボックスだった。
しかも、わざわざドローンで届けるなんてどういうつもりなのだろう。
梨沙はドローンが飛び去っていった遠くの夕焼け空を仰ぎ見た。
「なんだろう、俺もちょっとわからないな」
その夜、梨沙は丸山に連絡を取って画面越しに箱の中身を一緒に確認してもらっていた。
ギフトボックスの中には、厳重に梱包されて、2つの電子機器が入っていた。
モニターつきの時計型の小型の機器と、同じくモニターがついた大型で平べったい機器。何かの測定器のようだった。
「起動してみるしかないですかね」
梨沙が機械に手をかけると、丸山が「ちょっと待って」と止めた。
「誰が何の目的で送ってきたのかわからない。いきなり動かすのは危険じゃない?」
丸山の言うこともわかる。
しかし、慎重になりすぎても何も始まらない気が梨沙はした。
結局、機械を起動するかの結論は出ないまま、その日は解散になった。
丸山が知人のエンジニアに聞いてみてくれるという。
深夜、梨沙は黒い機械をじっと見つめたまま、時間を過ごした。
誰がなぜこんなものを送ってきたのか。
何かのメッセージであることは間違いないと思う。
でなければ、あんなワザとらしいギフトボックスを用意するはずがない。
送り主は梨沙の身に起きていることに答えをもたらしてくれるのではないか。
そんな淡い期待をしてしまう。
丸山には反対されたが、やはり機械を起動するべきではないかという気がした。
少なくとも送り主は梨沙が知らない情報を持っているはずだ。
迷ったあげく、梨沙は電子機器のスイッチを入れてみた。
ブンと鈍い音がして大型の電子機器についたモニターが起動して画面にハートマークが現れた。
ふいに梨沙はこの電子機器が何なのかわかった気がした。
(これは胎児の心音を測る機械なんじゃ……)
そう考えると合点がいく気がした。
梨沙は機械をお腹にあててみた。
モニターに90や102などの数字が現れた。
心拍に違いない。確信に変わった。
そしてお腹の子はちゃんと生きていた。
(……生きてる)
梨沙は温かい気持ちに満たされた。
お腹の子供が生きていることに安堵している自分がいた。
大型の電子機器はバンドでお腹に固定できるようになっていて、時計型の小型の機器で心拍のモニタリングがリアルタイムでできた。
その時、突然、梨沙のスマホが鳴った。
身に覚えのない番号が表示されている。
普段、知らない番号からの電話には出ないようにしているのだが、この時ばかりは胸騒ぎのようなものを感じ反射的に電話を取った。
「……もしもし?」
「よかった、電話を取ってくださって。賭けだったんです、あなたが電話を取るかどうか……」
男性の声がした。落ち着いた声だった。
「……誰ですか?」
「時間がないので手短に話します……私はあなたのお腹に宿る子供のことを知っています」
梨沙は全身の血がざわめく音を聞いた気がした。