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「いらっしゃい」と言って、ニコッと微笑む。
「よかった。部屋間違ってたら嫌だなとか思ってたんで」
私の顔を見て、香坂君がほっとした表情をする。『開けていい』ではなく、私がドアを開けてあげるべきだったと今更後悔した。
「お邪魔します」
香坂君が玄関に入り、履いていた靴を脱ぐと、その靴を端に寄せて置いた。そんな彼の様子を見届け、「どうぞ、入って」なんて、我が物顔で言う。
「結構いい場所に住んでいたんですね」
「そうみたい。もしかして、来るのは初めてなの?」
「そりゃぁ…… あまり来たいと思う場所じゃないし」
「あぁー…… 香坂君、司さんの事何だか苦手そうだものね」
「まぁ…… 」
お茶を濁し、渋い顔で短い返事をする香坂君を居間まで案内する。
「ご飯炊けるまでの間、ちょっとそこのソファーに座っていてくれる?」
ソファーを指差し、座る様に促した。私の言葉に応える様に彼はソファーに座ると、自分の荷物をソファーの横に、もう一つ別に持っていた大きな袋は目の前にあるテーブルの上にどさっと置いた。
「すごい量だね…… 」
「『こんなにいらないと思う』って言ったんですけどね、冷凍しておける物も多いから、余ったら後日食べればいいって」
「何度も届けに行かせるのも香坂君に悪いと思ったんじゃない?きっと」
「俺的には毎日届けに来てもいいんですけどね、唯先輩に会えるし」
「んな面倒な事しなくっていいよ。ただでさえバイトしてるのに、もっと勉強する時間なくなっちゃうじゃない」
「勉強なんて、別に…… 」
そんな事を小声で呟くので、「それはダメだよ」と嗜めておいた。
「では、これはありがたく頂きます!温め直すから、一旦台所持ってくね」
店長が作ってくれた大量の差し入れの入る袋を持ち上げると、私はキッチンに向かった。袋をキッチンにある作業台の上に置くと、一つ一つおかずの入る入れ物を出していく。
「どれも美味しそうだねぇー。いいなぁ、料理の出来る人って」
そうぼやくと、香坂君がクスッと笑った。
「先輩、料理苦手らしいですもんね」
「…… うん、『今は』ね。昨日までは得意だったみたいだけど」
自分で言っていて表情が曇る。『記憶』と『事実』の不一致がある状態は心底気持ちが悪い。
「やっぱり、思い出せない部分が気になります?」
「そりゃぁ、気にならない人なんていないでしょ。自分の事なのに自分だけが覚えていないなんて、やっぱり気分のいいものじゃないよ」
「こう考えたらどうです?『無くなった記憶の部分は、人生中のやり直したい部分だったんだ』って」
おかずが個別に入っていた入れ物を全部袋から取り出し、入っていたビニールの袋を畳みながら、私は香坂君の言葉に対して笑ってしまった。
「まさかっ。そうだったとは思えないけどなぁ。——あ、お茶は紅茶でいい?」
「あ、はい。もらいます」
さっき司さんが紅茶を淹れてくれた時に使っていたティーポットとカップを洗い、食器についた水分を拭いてそれを水切り籠に一度置くと、ずらりと綺麗に紅茶の缶が並ぶ棚に手を伸ばす。
「嫌いな味とかある?もしくは好きな紅茶の種類とか」
「特には。そういや俺、唯先輩の淹れてくれる紅茶飲んだ事って一度もないんですよね」
「そうだっけ?」
「だって先輩、部屋にあげてくれた事もなかったし。学校じゃ学部も学年も違ったから、淹れてもらうようなチャンスなかったですからね」
「初めて会ったのはアルバイト先でだもんね。学校が一緒だったって事も、香坂君から聞くまで知らなかったしなぁ。——んじゃ、無難にアールグレイにするね」
「…… 俺は、先輩の事知ってましたけどね。バイト先で会う前から」
「え?そうなの?火の屋で会った時、全然そんな事言ってなかったじゃない」
香坂君の言葉に受け答えしつつ、ヤカンに水を入れて火にかける。
「そりゃぁ、言っても先輩わかんないと思ったから」
「え、でもいつ?その時って、話したりもした?」
「廊下で…… レポート用紙ぶちまけて慌ててる奴に、春先に会ったのって覚えていません?」
「レポート…… それって、去年の春?」
「もう、去年ではないですけどね」と言って、香坂君が少し笑った。
「あ…… ごめん、そうだよね。でも覚えてるよ、白衣着てる髪の長い感じの子が、慌ててレポート用紙拾っていたっけ」
「アレ、俺なんですよ」
俯き、ぽつぽつとそう教えてくれた。手を祈るみたいに組み、心を宥めるみたいに自分の指を弄っている。
「…… は?」
「俺なんです、あの白衣の長髪」
少し上に視線をやり、記憶を手繰り寄せる。
——確か、あの時会った人は、控えめに表現したとしてもちょっと影があって、いかにも勉強以外の行為に興味ナシといった雰囲気の人だった気がするんだけど…… 。
今目の前に居る香坂君は、髪も茶色で短く、お洒落で明るくて、いかにも今風のお兄さんっといった雰囲気なので、どうも記憶の彼が目の前の香坂君とは一致しない。
「俺、大学入るまでずっと親に言われるままに勉強ばっかしてて、他の事なんか全然興味なくって、人との関わりなんかも煩わしいなとしか思ってなかったんですよ」
香坂君が視線を落とし、表情が少し陰る。
「——待って!この紅茶が出来るまで、その話は待って!」
キッチンのカウンター越しのまま、彼に向かい『待って!』と手でも合図しながらそう言うと、ちょっと香坂君が驚いた表情になった。だけどすぐにクスッと笑ってくれ、「いいですよ、いくらでも待ちます」と、穏やかな笑みを浮かべてくれる。
「ありがとう!ちゃんとお話聞きたかったから。こんな、キッチンと居間って離れた状態で、大声出しながらする話じゃないでしょ?」
「…… そうですね、確かに」
お盆を棚の中から探し出し、沸いたお湯を、紅茶の葉の入るティーポットに注ぐと、カップとティーポットをのせてそれを居間まで運ぶ。テーブルの上に置き、私は床に座布団を敷いて、彼の対面に座った。
(もしかすると、何か悩みでもあるんだろうか?)
なんて、結果的には的外れだった事を考えながら。