「さぁどうぞ」
正座で座り、かしこまった表情でそう言うと、香坂君が少し咳払いをする。
「…… なんか、改まって話すとなると、ちょっと緊張しますね」
香坂君が鼻の頭を軽くかきながら言った。
「あー…… ごめん、そうだよね。じゃあ、話したくなったら話して?もう、カップに入れても大丈夫かなー」
ティーポットの蓋をそっと外し、中を覗きこむ。まだちょっと蒸らした方がよさそうだったが、あまり濃いと飲み慣れていない香坂君には飲みにくいかもしれないと思い、私はティーポットに入る紅茶をカップへと注ぎ始めた。
「…… ちょっと、廊下の窓が開いていたんです」
香坂君が、小声でぼそぼそっと呟く。いつも元気で、自信に溢れている雰囲気の彼しか見た事がなかったので、今の彼の様子にちょっと違和感を覚える。
「運悪く、窓から入ってきた風に、落としたレポート用紙がいっそ今の俺なら笑えるくらいに舞っちゃって。それなのに、周囲に居る奴等は誰も拾うの手伝ってはくれないし。そしたら、ちょっと離れた所に居た唯先輩がこっちまで走って来てくれて」
「大変そうだったからね。何人分のレポート用紙落としたのかな?って思うくらい、量もすごかったし」
「風に舞う用紙追いかけて、一緒になって集めてくれて…… 俺にそれを渡してくれた時、唯先輩すごく可愛い笑顔で微笑んでくれたんですよ」
「そうなの?覚えてないなぁ…… 」
「『これで全部?』って訊いてた先輩に、俺声が出なくって、頷くだけで…… 。今まで誰かに笑い掛けてもらうとか一度もされた事なかったから。『キモイ』って言われる事はあっても、笑ってなんて…… 」
「そうなの?勉強得意そうだなーとは思ったけど」
「俺は、『どっからこの子供は入って来たんだ?』って思いましたよ」
懐かしそうな顔で香坂君が笑った。
「酷い!君よりも二学年も上なのにっ」
「だって先輩すごく小さいし、童顔だし、声も幼いし…… 。んでも、すごく可愛いなって…… 俺それまでロリ趣味とか全然理解出来ない奴だったんだけど、先輩の事は純粋に可愛いなって思っちゃいましたね」
「ロ…… ロリって…… まぁ、否定しないけどさぁ。否定出来ないけどさぁ…… 」
私の容姿をどうこう言わないでくれる数少ない相手だった彼にまで、本音ではそう思われていた事が少しショックで、私はそっと額をおさえた。
「その後、腕に教科書抱えてる姿見て、やっとウチの学生なんだってわかって。どんな人なのかなぁとか、気になって目で追うようになってって…… 」
「普通だったでしょ、見た目以外」
「いや、全然」
「え!?何、どこが!?」
「先輩、あんまり垢抜けてないじゃないですか。まぁ、俺が言う事じゃないでしょうけど」
「だって…… お金無いし、勉強もバイトもで忙しいし…… 」
「『苦労してるらしいのに、なんでいつも笑顔なんだろう?』『俺にも、もう一度笑い掛けてくれないかな』って、だんだん考える様になってったんですよね、俺」
「お金無いからって暗い顔してても、お金増えないからね。いい友達も多かったからかな、大学で笑う機会多かったのは」
「唯先輩見て、鏡に映ってる自分見て、こんなんじゃもう一回先輩の笑顔をもらうなんて無理だって気が付いて、今の俺の完成です」
「私別に、最初の長髪白衣も悪くなかったと思うけど?」
「俺の努力、無駄ですか…… 」
「理系男子ってカッコイイじゃない。でも、今の香坂君の方が話しやすい雰囲気でいいとも思うけどね」
「よかった。そう言ってもらえて、頑張った甲斐がありましたよ」
「結構モテるみたいだし、すごい変貌だよね。素材もいいんだし、自分を磨いたのはすごく良い事だと思うよ。彼女もすごく可愛い子なんじゃない?」
「…… 先輩、俺の話ちゃんと聞いていました?」
「聞いてたよ?」
「じゃあなんでそれで、俺に彼女がいる事になるんですかっ」
「え、だってお客さんにもモテてるし、大学でも人気あるみたいだし?よく頼まれるよ、『香坂君紹介して!』って」
「大学ん時、やたら女性ばっかの集まりに俺を誘ってくれていたのって、もしかしてそんな理由でだったんですか!?」
「うん」
「うわぁ…… ちょっと期待してたのに」
「期待?あぁ、彼女出来るかもって?」
「違うでしょ!——あーもぉ…… 唯先輩って、鈍感だとか、そういうレベルすらも、もう超越してるんだって、今更気が付きましたよ」
香坂君が口元を両手で押さえて渋い顔をした。
「鈍感じゃないよっ。店長が好きな人だとか何となくわかってるし、バイトの子達の事とかも、ちょっと気付いてる事だってあるしっ」
「人の事は気が付いていても、意味がないんですよ。先輩、『自分が誰かに好きになってもらえるはずない』って、思い込んでるでしょ」と、香坂君が私の方を無遠慮に指差して言う。
「何で、知ってるの?」
今までの人生。好きになった人に告白しても連戦連敗が私にとっては当たり前だった。だから経験的に『自分はそういうもの』だとわかっている。なので余計に、司さんみたいな一目で惚れてしまう様な外見のお兄さんが自分の夫である今の状況に、酔いしれて、浸って、甘えてしまいたい自分が居るんだから。
「伊達に、何年も片想いしていませんよ」
「片想い?香坂君が?誰にっ」
「あーくそっ。…… こういう人だって解っていても、このボケっぷりは許せないなぁ…… 」
深い溜息をはぁっと吐き出し、香坂君が頭を横に振った。
「ねぇ先輩、離婚しないんですか?」
「何を急に」
「…… だって、忘れちゃったんでしょ?旦那が居た事。それって、忘れたいくらい酷い結婚生活だったって事でしょう?それなら今からでも別れて、別の恋を——例えば俺と、とか!」
「無理だよ、離婚なんて」と私は間髪入れずにはっきり告げた。
「アイツがしないって言ったんですか?」
「違う、私がしたくないの。司さんと離れたくないの」
「それは周りから『夫婦だった』と聞かされたからそう思うだけでしょう?こんな事で忘れちゃうような相手、本気で好きだったとは俺には思えない」
「一度は忘れても、今の私も司さんが好きだもの。何度忘れたって、私は絶対に司さんしか好きになれないよ」
「昨日会ったばかりの奴なのに、ですか?」
「愛情の芽生えに時間とか関係ある?運命の糸で繋がる相手なら、一瞬で心が『この人しかいない』って判るよ」
「…… わかりますよ、わかります。唯先輩がそう想う気持ちは、痛いほどわかります。けどね、『はいそうですか』ってその言葉を受け入れる事が出来る程、俺も軽い気持ちを先輩に対して抱いている訳じゃないんです」
「先輩に?年上の人なんだね、そっかぁ」
「——は!?…… ははは…… はぁ。この壁、俺が思っている以上にぶ厚いんですね。信じられないや、ここまで言ってて、それでも気が付かないって」
香坂君が膝に肘を置き、両手で自分の顔を覆って俯く。重たい空気の流れる部屋の中に、炊飯器からお米の炊けた事を知らせる音が聞こえてきた。
「あ、ご飯炊けたね。ちょっと中身混ぜてくるよ」と言い、私は立ち上がろうとした。
「…… すみません、俺もう帰ります」
そう言って、香坂君が私に座っている様にと手を振りる。
「え?食べて行くんじゃないの?」
「あー…… 真面目な話してたら、食欲なくなっちゃったんで」
「…… そっか、じゃあまた今度ね。紅茶も下げておくよ、冷めちゃったし」
「あ、いや!飲みます、冷めてても気にしないんで」
テーブルに置かれたままになっていたカップを手に取り、香坂君は「煎れ直すよ?」と言った私の言葉も聞かず、すっかり冷めてしまった紅茶を一気に飲み干した。
「…… 温かい方が美味しいのに」
「冷めてたって、美味しかったですよ。——ありがとうございました」
飲み干したカップをテーブルに戻すと、ソファーの横に置いてあった自分の荷物を持ち、彼は立ち上がった。諦めの混じる表情を、しながら。
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