テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!
むせかえるような花の香りの中、グレンシスはマダムローズの質問に答える。
胡散臭いと思われるほどの、大変紳士的な笑みを浮かべて。
「はい。宰相殿は、仕事が終わらないそうなので置いて来ました」
「……置いてきたって……お前さん、あの人の護衛騎士になったんだろう?」
「はい。ですが、就業時間後まで付き合うわけにはいきませんから」
必要以上に爽やかな口調でと言い切ったグレンシスに、マダムローズはあんぐりと口を開けた。
実はグレンシスは、2ヶ月前から宰相であるユザーナの護衛騎士に任命された。
元々グレンシスは王女の伝令役という名の護衛騎士だったけれど、王女が嫁いだことで、年が明け少ししてから人事異動があったのだ。
王女の護衛から宰相への護衛は、まぁまぁ悪くない。いや、なかなかの出世だ。
ただ宰相はティアの父親でもある。何かしらの要因が働いたことは否めない。日中、チクチクと仕事とは関係ない嫌味を飛ばす宰相を見て、まごうことなき個人的な感情が働いた人事異動だったと痛感せざるを得ない。
でもグレンシスは、そこそこ要領よく日々を過ごしている。例えばこんなふうに。
「ああ、そうそう。マダムローズ、実はロシャーニ産の稀少ワイン、1箱とある筋から入手しました。ずっと探し求めていたそうですね。もうすでに厨房に納めてありますので、どうぞ後ほどご確認ください」
先手必勝とばかりにマダムローズの喉元をくすぐるような言葉を吐いた。
真面目で堅物であったグレンシスだけれども、宰相と過ごすうちにほんの少し要領が良くなった。
なかなかの札を出されたマダムローズは、ぐぬぬっと呻いたけれど、次の瞬間、ぷっと吹き出した。
どうやら、今日のグレンシスの発言は聞き流すことにしたのだろう。にやりと口の端を持ち上げ、顎でとある場所を示す。
「ティアは地下の衣裳部屋にいるよ。手伝っておやり」
「ありがとうございます」
グレンシスは慇懃に礼を取り、まるで待てを解かれた犬のように、一目散に地下の衣裳部屋へと駆け出して行った。
一方その頃、ティアは地下の衣装部屋でえっちらおっちら娼婦たちのドレスや小物類を必死に片付けていた。
本当の父親が誰だか判明した今、ティアは貴族令嬢の仲間入りをして、娼館の娘でいる必要はなくなったが、相変わらず下働きのようなことをしている。とりあえず、秋までは。
ティアとグレンシスは、今年の秋に挙式をとり行う予定だ。
プロポーズを受けたのは、昨年の秋。今は春。つまり夏を跨いで、やっと挙式となる。
幼少の頃に婚約を決められた貴族を除いては、こんなに長く婚約期間があるのはかなり珍しい。
それはひとえに、実父と義父との間にある問題のせいなのだ。未だにティアのバージンロードをエスコートするのは、どちらか決まっていないから。
正直いって、ティアはどちらでも構わない。なんなら、二人共にお願いしたい。だがパパロフとユザーナは、声を揃えて「誰がコイツと並んで歩くか!」と猛反発した。
そのためティアとグレンシスは、「どうか秋までに、決めてください。ただし、無傷で」と、二人の父親にお願いした。
現在、バザロフとユザーナは暇さえあれば、エスコート権をめぐり、さまざまなジャンルで争っている。
そんな経緯をつらつらと思い出しながらでも、ティアの手は止まらない。
ドレスを一着一着丁寧に作り付けのクローゼットにしまい込み、天井まである収納棚にはしごを使って、小物や靴をしまっている。
すべての備品を片付け終えれば待っていたかのように、楽団の曲目がオーバーチュアから迎賓曲へと変わった。
娼館も、開館前とは違う忙しさを感じて、ティアは少しだけ口元に弧を描く。なんだかんだいっても、メゾン・プレザンで働くことがティアは好きなのだ。
けれどこれまでのように、マイペースでここで一休みするわけにはいかない。
ティアはすぐ軽く伸びをして、梯子から降りようとしが、その瞬間、ガチャリと扉が開いた。ティアの翡翠色の瞳が輝きを増す。
「ティア、帰るぞ」
深紅のマントを羽織ったイケメン騎士は、ティアに向け柔らかい笑みを浮かべてそう言った。
今、ティアが生活しているのは、メゾン・プレザンではなくロハン邸だ。
昨年の秋、ティアはグレンシスからの求婚を受け入れてからずっと、ロハン邸でお世話になっている。
なし崩しにではなくグレンシスはきちんと筋を通してユザーナにも、バザロフにも、マダムローズにも許可を取ってくれた。
マダムローズとバザロフはもともとティアに対して放任主義のところがあったのであっさり許可が出たが、ユザーナは難色を示した。いや、はっきりいって大反対をした。
でもこれはグレンシスにとったら想定の範囲内だったようで、過去何度もロハン邸で過ごして、既にティアの部屋があることを礼儀正しく説明した。
それでも難色を示すユザーナに、腰痛持ちの使用人マーサは、ティアの専属の患者であることも付け加えた。
移し身の術に並々ならぬ想いを抱えているユザーナは『お前、ズルいぞ』と埋めきつつも、最終的には許可を下した。
そんなやり取りがあり、グレンシスは夜勤や遠征がない限り、ティアのお迎えのためにこうしてメゾン・プレザンに足を向けている。
だからティアは迎賓曲が聞こえると、いつ衣装部屋の扉が開くのかソワソワしてしまうのだ。
「どうだ、片付けは終わったか?まだなら、俺も手伝うぞ」
「いいえ、今終わったところです」
「お、おい待てっ。危ないだろ」
これまで通りの習慣で、梯子の一番上から飛び降りようとしたティアを、グレンシスは慌てて止める。
そしてはしごの下まで移動すると、両手を伸ばしてティアの脇に手を入れ、そっと床に下ろした。
「あのぉ……グレンシスさま、あまり甘やかさないでください」
騎士服のまま膝をついて、自分のスカートの皺を手のひらで撫でるように落とすグレンシスに、ティアは苦笑混じりにそう言った。
日々を重ねるごとにグレンシスの行動は、落ち着くどころか甘やかし度が増していく。
気持ちは嬉しいし、ありがたいし、くすぐったい。でも、限度が見えないティアはそろそろ一抹の不安すら覚えている。
しかしグレンシスは、頷くどころか、信じられないものを見る目付きになった。
「馬鹿を言うな。俺はこれでも十分我慢しているんだ」
「……っ」
ティアは返す言葉が見つけられなかった。
唖然としたティアの手を引き、グレンシスは衣装部屋の戸締まりをして部屋を出ると、肩を並べて裏口へと向かう。
「ティア、お疲れ。また明日な。騎士さま、今日はご教授ありがとうございました。またご指導お願いします」
「はい。ロムさん、お疲れさまでした」
「ああ。頑張りたまえ」
「はいっ。では、どうぞお気を付けて」
裏口の扉を開けて、ティアを見送るロムの表情は、親しみはあるけれど、恋慕の情はもうなかった。
寄り添う二人の後ろ姿を見て、ロムが何を考えているかは……内緒である。
ティアを乗せた馬車が静かに止まった。ロハン邸に到着したのだ。
風見鶏が春の夜風に吹かれて、カラカラと回る中、御者が恭しく扉を開ける。
馬を使用人に託したグレンシスが、馬車を降りようとするティアをそっと支える。二人は手をつないで、屋敷の玄関へと向かう。
「おかえりなさいませ。旦那様、ティアお嬢様」
グレンシスの手で玄関の扉を開けると同時に、使用人たちの暖かい声に出迎えられ、ティアはこくりと唾を呑む。
なにせこの屋敷の使用人一同は、ご主人様と同じくティアを甘やかしたくて仕方がない人たちばかりなのだ。
「さ、お食事を用意しております」
「いえ、それよりも香りの良いお茶をお持ちしましょう」
「いえいえ、お疲れでしょう。先にお湯を用意しましょうか」
「それよりもまずは、お着換えですね」
さぁさぁと満面の笑みで迫られ、ティアはじりっと後退した。
そこに庭師の制止をふりきった番犬であるシノノメが、早く入れと鼻先を使って、ティアを膝をぐりぐりと押す。ついでにぴすぴすと甘える声までだされたら、もう観念するしかない。
ティアは押される形で、やっとこさロハン邸に足を踏み入れた。
「ただ今戻りました」
一歩玄関ホールに足を踏み入れたティアは、ペコリと頭を下げる。
「おかえり、ティア」
玄関ホールに足を踏み入れるまで、毎度毎度同じことを繰り返すティアにグレンシスはあきれることもしなければ、急かすこともしない。
ティアの「ただいま」に、グレンシスはいつも必ず「おかえり」と返してくれる。逆の時もまたしかり。
毎度毎度このやり取りのあと、モジモジするティアとグレンシスを使用人たちは生温い視線と笑みを浮かべて見守っている。
場所は変わり、主がいないしんとしたティアの部屋では、パチパチと薪がはぜる音が響いている。ミィナがティアの到着時間に合わせて暖炉に火をくべたからだ。
既にルームランプにも明かりが灯されていて、部屋はくつろげる明るさになっている。
ベッドの上にいる大小の熊の縫いぐるみは、ティアの到着を待ちわびて若干ソワソワしていて、窓側におかれているチェストの上の桃の形をした宝石箱は揺れる暖炉の火に反射して、てらりと光っている。
──カチャリ。
扉が開く音と共に、ぽてぽてとした足音とカツカツと規則正しい足音が重なり、2人は足を止めた。
暖炉の火で伸ばされた2人の影がゆらゆらと揺れながら重なる。しんとした部屋に互いの吐息と薪のはぜる音が混ざり合う。
いつの間にか屋敷の主は、縫いぐるみがいてもお構い無しに、部屋の主に触れるようになっていた。
──それから2年の月日を迎える頃、ティアは母となった。