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午前5時。
遮光カーテンの隙間から差し込む薄灰色の光が、殺風景な部屋を中途半端に照らし出していた。
不意に、部屋の空気が微かに揺れた。
天利「(……ッ!)」
俺は意識が浮上すると同時に、音もなく跳ねるように身を起こした。
長い年月、いつ首を獲られてもおかしくない境界線上で生き続けてきた男の防衛本能だ。
寝起きの濁りなど一切ない鋭い眼光が、音のした方角——バスルームの入り口を射貫く。
なまっ白い指が、枕元に隠してあった折りたたみナイフへ伸びようとした、その時だった。
シズカ「……あら。起こしてしまいました?」
そこには、俺のワイシャツを借りて羽織っただけのシズちゃんが、濡れた髪をタオルで拭いながら立っていた。
天利「……シズ、ちゃん……」
俺は引き絞った全身の力を、長い溜息とともに吐き出した。
緊張から解放された身体が、わずかに震える。
天利「……驚かせないでくれ
誰かが部屋に忍び込んだかと思った」
シズカ「ふふ、ごめんなさい
天利さん、あまりに深く眠っていらしたから
……それにしても、あんなに端っこで寝ていらしたのに、どうして起きた時には真ん中で逆さまになっていらしたのかしら?」
天利「……逆さま?」
言われて気づけば、彼女の言う通りだった。
寝相の悪さには自覚があったが、彼女を潰さないようにと意識しすぎた反動か、ベッドの上で奇妙な移動を遂げていたらしい。
40になろうとする男の失態に、俺は気恥ずかしくなって髪を掻き上げた。
シズカ「私、身支度に時間がかかりますの
それに、昨日と同じお洋服で仕事に行くわけにはいかないでしょう?
1度家に戻って着替えてから出勤しますわ
……バレエをしていた頃からの癖で、早起きには自信がありますのよ」
彼女は、ワンピースのように大きなシャツの裾を翻しながらベッドの端へ歩み寄り、膝をついて天利を覗き込んだ。
朝のシャワーを浴び終えたばかりの彼女からは、昨夜の重厚なラムの香りは消え、清潔な石鹸の匂いだけが立ち昇っている。
メイクを落とした彼女の素顔は、20代後半という実年齢よりもさらに幼く、そして驚くほど透き通るように白い。
天利「……本当に、君は……嵐みたいな子だね」
俺は、まだ少し警戒の熱が残る自分の指先で、彼女の頬に触れた。
昨夜、自分の闇に引きずり込んだはずなのに、朝の光の中に立つ彼女は、眩しいほどに凛としている。
シズカ「天利さん
……そんな顔しないで
私、もう決めたんですもの」
彼女は、赤ん坊のように小さな手で俺の指を握りしめ、その節くれ立った拳にそっと唇を寄せた。
シズカ「行ってきます
……今夜も、会いに来てもいいかしら?」
天利は答えなかった。
代わりに、自分を「掃除屋」から「ただの男」に引き戻したその小さな体を、壊さないよう慎重に引き寄せた。
─── ───
天利のセーフハウスを後にしたシズカは、1度自宅へ戻り、熱いシャワーを浴び直した。
鏡の前で、首元の小さな痕跡をコンシーラーで丁寧に消していく。
バレエで培った体幹は、睡眠不足など微塵も感じさせないほど真っ直ぐに伸びていた。
1時間後
シズカは、一分の隙もないアイロンの効いたブラウスと、知的なタイトスカートに身を包んでいた。
優子「……おはよう、シズ
顔色が随分いいじゃない
毒を食らって、腹でも壊したかと思ったけど……」
出社したシズカを待っていたのは、優子の射抜くような視線だった。
シズカ「……おはようございます、新界さん
おかげさまで、とても清々しい気分です」
シズカは淀みなく答え、優子のデスクに完璧に整理された資料を置いた。
優子はフッと口角を上げると、シズカの微かに潤んだ瞳を見て、すべてを察したように書類に目を落とした。
優子「そう、ならいいわ
……今日の会議、あんたが仕切りなさい
仕事で粗を出したら、その時点でその男のせいだと見なすからね」
シズカ「心得ております
……行ってまいります」
背筋を伸ばし、ヒールの音を響かせて歩くシズカ。
その背中は、昨夜天利に抱き上げられていた「子供のような小さな女」とは別人の、戦うプロの顔だった。
一方、シズカを見送った後のセーフハウス。
天利は、彼女が去った後のシーツに残る、微かな石鹸の匂いの中にいた。
天利「(……静かすぎるな)」
若い頃から、ホテルを渡り歩く生活に憧れは あったし不便を感じたことはなかった。
私物を持たず、守るものも持たず、その場その場で居場所を作り、ただ流されるだけの日々。
この殺風景な部屋こそが、自分にふさわしい場所だと思っていた。
だが、今朝。
大きなシャツに溺れるようにして歩いていた彼女の小さな足音や、茶道の所作で丁寧に淹れられた白湯の湯気を思い出すと、この部屋が耐え難いほど「空っぽ」に感じられた。
天利は、灰皿に溜まったタバコの吸い殻をゴミ箱へ捨てると、手慣れた手つきで「お掃除」を始めた。
彼女がいた形跡を消す作業……。
だが、拭いても拭いても、胸の奥にこびりついた「独りにしたくない」という執着が消えない。
自分が反社会的勢力である以上、不動産の契約書に自分の名を刻むことはできない。
そもそも、天利は誰のことも信用していない。
組の人間にすら、シズカの存在を詳細に明かすつもりはなかった。
天利「……名義は、シズちゃんにするしかないか」
彼女の名で、彼女が安心して「光」を保てる場所。
それと同時に、俺という「毒」が彼女を汚さないための、境界線のある家。
俺は煙草を1本咥えると、慣れない手つきで不動産サイトや、組の息がかかった裏の不動産業者のリストを捲り始めた。
最初は、陽当たりのいい、ごく普通のマンションか一軒家を探すつもりだった。
だが、シズカの生活を思い浮かべるうちに、俺の思考は迷走し始める。
天利「(シズちゃんは、茶道を嗜んでいる
……和室は必須だ
いや、普通の和室じゃだめだ
茶道は詳しくないけど専用の設備?がある方が喜ぶだろう)」
さらに、今朝の彼女の身支度を思い出す。
天利「(女の子ってのは、とにかく服や靴、小物が多い
これまで見てきた女たちは、皆そうだった
彼女はお洒落だし、洋服や靴……茶道の着物や帯、和装小物もたくさん持っているはずだ
……普通のクローゼットじゃ足りないな
ウォークインクローゼット、それも二畳以上は必要か?)」
俺は、灰皿にタバコを押し付けながら、以前、シズカが楽しそうに話していた「理想の部屋」の断片を必死に手繰り寄せていた。
天利「(明治大正ロマンがどうとか……
いや、他にも何か言っていたはずだ)」
俺は眉間を揉み、うろ覚えの単語を絞り出す。
天利「(たしか……『ブリ……ブリキのアンティーク』……だったか? いや、『ビクトリアの腰掛(こしかけ)』……?)」
俺にとって「ブリティッシュアンティーク」や「ヴィクトリアン様式」といった用語は、これまで生きてきた「裏の世界」には一欠片も存在しなかった言語だ。
俺の知る内装といえば、タバコのヤニで黄ばんだ壁か、あるいは成金趣味の悪趣味な大理石、もしくは無機質なホテルの壁紙だけだった。
天利「(……とにかく、イギリスの古い感じの、曲線が凝ったやつだ。……おじさんには、呪文にしか聞こえなかったけど)」
シズちゃんが目を輝かせて語っていた「ヴィクトリアン様式」の優雅な曲線美を、俺は「なんとなく豪華で歴史がありそうな、木の温もりがある感じ」と超訳し、無理やり条件に付け加えた。
さらに自身の「後暗さ」を考慮し始める。
天利「(……俺の寝相の悪さで、彼女を怪我させるわけにはいかない
それに、俺の仕事道具や、いつ来るか分からない物騒な連絡……そんなものを、彼女に間近で見せるわけにはいかない)」
シズカの家では、家具で部屋を仕切っていたと聞いていた。
ならば、ここでは完璧な「個」を保障してやりたい。
シズカ専用の広々とした自室。
着物や洋服が溢れないための巨大な収納。
茶道を心ゆくまで楽しめる独立した和室。
そして、俺という汚れを隔離するための、離れた場所にある俺の寝室兼自室。
天利「……これでは、最低でも3LDK……いや、4LDKか」
当初の「慎ましい隠れ家」という計画はどこへやら、提示される条件は都心の高級億ション並みのスペックへと膨れ上がっていた。
俺は、御焼組の主に不動産をシノギにしている中堅の組員を呼びつけた。
天利「都内で、静かで、セキュリティが完璧で、和室があって、収納がバカみたいに広い物件をリストアップしてくれる?
……それから、名義変更の手続きに詳しい税理士もよろしく」
組員「は、はい!
でも、どうされたんですか?
もしかして、姐さんでも……」
天利「……余計な詮索はしない方がいいよ」
天利の氷のような眼光に、組員は「ヒッ」と短く悲鳴を上げて飛び出していった。
─── ───
1人残された部屋で、天利はスマホの画面に映る間取り図を見つめる。
これまで「壊す」ことや「消す」ことばかりに長けていた指先が、今、必死に彼女との未来を「建てる」ための形をなぞっていた。
天利「(……シズちゃん。君が、俺の隣で笑っていられる場所を、俺が用意するよ
……例えそこが、どれほど歪な形の巣だとしてもね)」
窓の外、昼下がりの太陽が眩しく街を照らしている。
天利は、その光が届く場所へ、愛しい「毒」を連れて行く準備を始めた。