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そう、気になったんだ。
おばさんがいなくて、若菜と原田がふたりでいたことにも驚いたけど、それより多分、原田の若菜に対しての態度が前より打ち解けていたのがショックだった。
あの時、すぐ駆け寄って若菜と原田を引き離したいのに、でも、ふたりの距離が縮まることはわかっていたことだから、動けなかった。
ただ、そうなると予想していたことが現実になっていただけで―――。
俺の言葉に、若菜が息を詰めたのがわかった。
“それってどういう意味?”と思っているようにも感じるが、若菜の口から言葉は出ない。
微妙な沈黙が流れた後、若菜がふっと眉を下げ、表情を変えて笑った。
「……気になったって、どういうことよー。だって湊は知ってるじゃない。原田くんが私を……」
そこで言葉は途切れ、空白が生まれる。
その空白を埋めるように、若菜は「好きだってこと」と押し出した。
その間、俺の心臓は騒ぎすぎて、激しく心が痛い。
「知ってる。だから気になってた。……若菜のことが大事で、心配してるから」
口から零れた本心を、若菜はどう思っただろう。
若菜はぴたりと足を止め、俺を見た。
目を見開いた若菜は、やがてなにかを堪えるように眉を寄せ、唇を結ぶ。
……あぁ、俺はその表情を知っている。
若菜が苦しいと思っている時にする表情だ。
でも若菜はすぐその表情を解き、弱い笑みを浮かべて再び歩き出す。
「湊、バカだよね」
「……は?」
思いがけない言葉に、間の抜けた声が零れた。
「ほんと、バカだよ」
「なんだよバカって」
急にバカバカと言われて面食らう。
俺、そんな変なこと言ったか?
若菜のことが大事で、心配していると言ったのが、どうしてバカなんだ。
「バカだよ。だって湊は私のことわかってる気でいるのかもしれないけど、ぜんぜんわかってないもん。……まぁ、そんなの前からだけどね」
仕方ないな、という顔で笑う若菜に、ふと以前も同じことを言われたのを思い出す。
若菜とグランピングに行った時、俺が異動になると伝え、俺は俺より、原田のほうが、若菜や若菜のうちのためになると話した。
あの時……若菜は今と似た表情で、仕方ないというふうな表情で笑っていた。
若菜のこと、俺はわかっていないけど、若菜は俺のことをわかっていると言って。
若菜と若菜の家のことを、俺が考えていることをわかっている、と言って、若菜は弱く笑っていたんだ。
歩みが遅いながらも、だんだん駅が遠くなり、家が近づいてくる。
景色が変わる度、俺たちが別れる時が近づくのを意識せざるを得なかった。
「……あっ」
ふいに思い出したように、若菜が明るい声を出す。
「この道歩いてると、駅前で飲んだ後に、一緒に歩いて帰ったのを思い出す」
「え?それいつのことだよ」
駅前で若菜と飲んだのなんて、ぱっと思いつく限り、記憶にはない。
記憶を遡っていると、若菜が続けた。
「大学生の時だよ。大雪の日。私が振られて、湊に報告した日、一緒に帰ったでしょ」
言われて、どうして思い出さなかったのかわからないほど鮮やかに、その時のことが瞬時に思い出される。
若菜が彼氏に振られ、報告を受けた日。
駅前の居酒屋で、あまり飲めない酒を何度も口にしていた若菜のことも。
振った男への憤りも。若菜をなんとかしてやりたいと思った気持ちも。
帰りの雪道と、その後のことも、一瞬であの時のことが脳裏に蘇った。
「湊、私が転びそうだからって、すごく心配してくれてたよね。カバン持ってくれて、今思えば優しかったよね」
若菜はくすくす笑っている。
でもその笑みに力はなくて、俺の中にただ儚い印象を残して、胸を締めつけられる。
あの時俺は、若菜の気持ちが軽くなるよう、それだけを考えて話を聞いていた。
若菜が自尊心を傷つけられないように。若菜の傷がすこしでも早く癒えるように、それだけを考えて一緒にいた。
でも、自分でも気づかないほど胸の奥の奥では複雑だったし、自分のほうが若菜の彼氏より若菜を理解していると思うことで、俺は自分自身の自尊心を保っていた。
そしてなにより、その後に若菜とした約束が忘れられなかった。
30歳になって、お互い相手がいなければ結婚しようと言った約束は、俺の中にあれからずっと生き続けた。
それは若菜も同じだと思っていたけど……今はもう、その約束は忘れなきゃいけないのか―――。
次の角を曲がると、俺たちの家が見えるという場所で、若菜が突然小さく笑った。
「え?」と顔を向ければ、若菜は「なんでもない」と笑って答える。
「なに?」
「……いや、湊にバカだって言ったけど、私もバカだなーって思って」
若菜は小さく笑った後、深い息を吐き出す。
バカ?
それってどういう意味だ?
「なんか湊が明日からいなくなるなんて不思議だなぁ。今となりにいるし、ぜんぜんそんな感じじゃないのに、それが現実なんだから」
なにかわからないけど、若菜がなにかを考えているのは感じる。
家が近づいて、若菜も別れを意識したのかもしれない。
若菜は笑った顔のまま俺を見た。
一瞬目が合い、若菜の儚い笑みを直視して、心が軋む。
「ねー、湊」
若菜はすぐ視線を前に戻して、俺より一歩先を歩き出した。
「ん?」
「湊は、私のことなんだかんだで気にかけてくれてるじゃない。なにかあれば湊に話してきたし、湊は私の話を聞いてくれて、うちのことも心配してくれて」
「あぁ、そうだな」
そんなこと、意識することもないほど当たり前だった。
あまり使いたくない表現だけど、俺にとって若菜は家族みたいなものだったから。
小さなことまでなんでも話をするわけじゃなくても、大事なことはお互い話してきたつもりだ。
「あんまり意識しなかったけど、幼なじみってそういうことなんだよね。私も湊と進路が違ったりしても、遠くになった気はしなかったし。いて当たり前みたいに思ってた」
「……そうだな」
若菜がいて当たり前みたいに思っていたのは、俺も同じだ。
俺たちにとっての“当たり前”が、これから変わるのは……“仕方ない”ことなのか?
角を曲がり、俺の家を通り過ぎる。
俺と若菜の家の真ん中の空き地の前で、どちらともなく足を止めた。
若菜が振り向き、俺は若菜をゆっくり見つめる。
どちらかがここを離れれば、俺たちは離れる。
それを嫌というほどわかっているから、俺は若菜を見つめたまますこしも動けなかった。