『ベノベノム、めっ。』
青水
笑っていたはずなんだ。
放課後の教室、日が沈む前の光。
ガラスに反射する僕といふくんの姿が、やけに綺麗で、
まるで“普通”の青春みたいで。
でも――それがもう、どんなだったか思い出せない。
あの日、あの屋上で、
僕がいふくんを引き留めてしまった。
あの手を、離せなかった。
あの時、もう少し早く終わっていれば、
誰も苦しまなかったのかもしれないのに。
「なあ、ほとけ。お前さ――ほんまに、俺のこと好きなん?」
いふくんが言った。
目の奥は笑ってなかった。
いつか見た空の色よりも暗い、沈んだ黒。
僕は笑おうとして、笑えなかった。
「……好きだよ」
「ほんまか? それ、依存とかじゃなくて?」
喉の奥が詰まる。
言葉にならない声だけが漏れた。
彼の指先が僕の頬をなぞる。冷たい。
その冷たさが、心地いいと思ってしまう。
「ほら、やっぱりや。
お前、俺の毒、もう効いとるやん」
「いふくんの毒なら、僕は……それでいい」
「アホやなぁ」
笑う声が、壊れていた。
乾いた音。
笑ってるのに泣いているようで、
僕の胸の奥がずきずきと痛んだ。
数日後。
いふくんは学校に来なくなった。
噂だけが広がる。
「入院したらしい」「薬の副作用」「メンタルやられた」――
誰も確かなことは知らない。
僕は、誰にも話せないまま、
自分の中で何かが崩れていくのを感じていた。
連絡もつかない。
夜中、SNSのアイコンが消えていた。
トークルームを開くと、
最後に僕が送った「生きてる?」が虚空に漂っている。
既読はつかない。
赤いハートのマークが、死んだように静かだった。
その夜、僕は眠れなかった。
呼吸の仕方を忘れるくらい、胸が痛かった。
目を閉じるたびに浮かぶ。
あの手。あの声。あの毒の笑顔。
「いふくん……どこ行ったの」
返事の代わりに、スマホの画面が暗転した。
何も映らない。
僕の顔だけが、そこにあった。
ひどく醜くて、気持ち悪かった。
雨の日だった。
保健室のカーテンの奥。
消毒液と鉄の匂いが混ざるその場所で、
僕はいふくんを見た。
「……やぁ、ほとけ」
「……いふくん……!」
声が震える。
けれど彼は、いつものように笑っていた。
いや、笑ってる“つもり”だった。
唇の色が悪くて、手が少し震えていた。
「来ると思ったで。お前、俺が死ぬとか思っとったやろ」
「そんなこと……!」
「なぁ、ほとけ。俺さ、もう薬も効かへんねん。
ドクドク流れてく感情が止まらへん。
愛も孤独も、どっちも毒や」
「じゃあ、僕が解毒する」
「できるんか?」
「できるまで、僕が――」
「できんよ」
その一言が、鋭く胸に刺さった。
いふくんの声は優しくて、残酷だった。
「お前、俺の毒吸いすぎた。
もう手遅れや。
お前の目、もう俺みたいな色になっとる」
「そんなの、どうでもいい。
僕は、いふくんが生きてくれたら、それで」
「アホやな。……なら、いっそ一緒に堕ちよか」
「え……?」
「俺一人やと寂しいやん。
お前も、俺の中で腐ってくれや」
その瞬間、彼の手が僕の頬を包んだ。
その手のひらには、薄く血が滲んでいた。
温かいのに、どこか冷たい。
まるで“死”そのものみたいだった。
「いふくん……」
「ほとけ、好きや。
お前が俺を壊す前に、俺が壊したる」
息が詰まる。
次の瞬間、唇が重なった。
激しく、痛いほどに。
舌の奥で鉄の味がした。
彼の涙が混ざって、僕の喉の奥に落ちていく。
ドクドク。
ドクドク。
心臓が跳ねるたびに、視界が揺れた。
世界が傾いて、光が滲む。
「これで……おあいこやな」
いふくんの声が遠くで笑っていた。
僕の手の中で、彼の身体が少しずつ冷たくなっていく。
僕の心も、一緒に冷えていった。
――それから数日後。
屋上には、花が一輪だけ置かれていた。
誰が置いたかも、もう誰も知らない。
僕はその花を見つめながら、
無意識に手首の包帯をなぞった。
白が赤く染まっていく。
その赤が、いふくんの笑顔の色と同じに見えた。
「いふくん……ねぇ、もう一回だけ、笑ってよ」
風の音が答えた。
空は鈍色で、どこにも救いがなかった。
それでも、僕は笑った。
壊れた笑顔で、最後の一言を呟いた。
「――めっ」
そう言って、僕はフェンスを越えた。
地面に落ちる前、確かに聞こえた気がした。
あの日の声。
「おかえり」って。
その声に抱かれて、僕は真っ白な闇に溶けていった。
翌朝、校内の掲示板に貼られた小さな紙切れ。
“心の健康を大切にしましょう”
誰も読まないその文字の前を、生徒たちが通り過ぎていく。
窓の外、風に舞う二つの白い花びらが、
まるで二人の最後の息みたいに、静かに揺れていた。
――ベノベノム、めっ。
終わりも救いもない、甘い毒のまま
コメント
2件
神作すぎんか???? えめっちゃ好きなんだが...??