コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!
久しぶりに残業なく仕事が終わり、私はいそいそとした足取りで「リッコ」に向かった。
間もなく店に着くという時、携帯が鳴った。太田からだった。
「太田さん?お疲れ様です」
つき合い出したものの、私の口調はまだ丁寧語から抜け出していない。
―― 笹本もお疲れ様。今は帰り?
「うん。そうです。仕事の方は順調ですか?」
―― あぁ、無事に終わったよ。でもこれから接待だって。少しでも笹本の声が聞きたくて、電話してしまった。
太田はさらりと甘い言葉を口にした。
私は恥ずかしくなって口ごもる。
「……ありがとう、ございます」
―― あとはまっすぐ帰るんだよね?
「えぇと、今夜は友達と飲むことになったんです」
―― え?
ほんの一瞬だったが、太田の声が固まったように感じた。
「太田さん?」
―― あ、いや、なんでもない。その話は聞いていなかったなって、ちょっと思ったから。それって、女友達?
「え?そうですけど……」
太田の問いかけになんとなく違和感を覚えた。けれど、その正体をつかむ前に彼の優しい声が耳を撫でる。
―― 帰り、気を付けるんだぞ。そのお友達にもよろしく。
「はい。あ、そろそろお店に着くので、電話は切りますね」
―― そっちに戻ったら、出張土産を持って会いに行くよ。
「えぇ、分かりました。この後の接待、頑張ってください。
―― ありがとう。あ、呼ばれた。じゃあな。
太田が電話を切ったのを確かめて、私は携帯をバッグの中に仕舞った。
さっきの違和感はなんだったのか――。
ほんの少しの引っ掛かりを覚えながら、私は店へと通じる階段に足をかけた。ドアを開けて入って行くと、梨都子だけではなく、清水の姿もあった。
「碧ちゃん、久しぶり」
清水は私を見るなりぱっとした笑顔を見せて、おいでおいでと手招きした。
「梨都子さん、清水さんに連絡したんですか?」
私は二人の間に座りながら、梨都子に訊ねた。
「まさか。わざわざ連絡なんかしないわよ。でも、二人そろってちょうどよかったわ。少し時間がたっちゃったけど、この前のお礼させてよ。今日は全部私のおごりね」
梨都子はそう言って綺麗なウインクを投げてよこした。
「でもさ、碧ちゃんの顔見るの、ほんとに久しぶりよね。最後に会ってから三か月くらいになるのかしら。私が二人に送ってもらった日以来だよね。この前もらったメールによると、彼氏ができたってことだけど、今はちょうどラブラブ期間って感じなのかしらね?」
清水が大きく目を見開いた。
「えっ。碧ちゃんにとうとう彼氏ができたの?」
清水までもが梨都子の言葉に喰いついて、前のめり気味に訊いてきた。
「もしかして、あの名刺の人?」
両側から挟まれて、私は小さな声で答える。
「えぇ、まぁ、はい」
梨都子がにこにこしながら私を見た。
「よかったよ。なんか安心したわ。それで?連絡もらった時に書いてあった話って、何かしら?聞いてほしいことがあるとかなんとか」
「あ、いや、まぁ……。そんなにたいした話でもないんですけど……」
私は言葉を途中で切り、隣の清水をちらりと見た。まさか彼も来ているとは思っていなかったから、今話すのは恥ずかしい。
私の様子を訝しみ、梨都子が首を傾げた。
「もしかして、史也君がいると話しにくいことなの?」
「まぁ、そうですね」
「えっ、俺、邪魔だった?」
「いえ、邪魔って言うか……」
「ふぅん……」
梨都子は私の顔をしげしげと見ていたが、思い当たることがあったのか、納得したような顔でにやりと笑った。私の耳元に口を寄せて囁く。
「もしかしてセックスの話?」
私の頬が一気に赤くなった。
「当たりだった?」
梨都子はふふっと笑った。そのまま私に体をピタリと寄せて小声で続ける。
「相性が悪いって話?」
「じゃなくて……」
私もまた梨都子の耳に顔を寄せて囁いた。
「恥ずかしいんだけど、この歳まで最後までの経験がなくて、怖いっていうか……。付き合ってそろそろ二か月くらいになるんだけど、実はいつもはぐらかしてるの。それでね、どういうタイミングで、その、許したらいいのかな、って……」
「やだっ。もう、碧ちゃんたら可愛すぎ!」
そう言って梨都子は私にがばっと抱きついた。
「ちょっと、梨都子さん、声が大きい。おまけに苦しいっ」
「ごめん、ごめん」
梨都子は謝りながら離れると、満面の笑みを私に向ける。
「だって、碧ちゃんがあまりにも初々しく見えちゃって。まるで高校生とか学生と話してるみたいなんだもの」
私は自嘲気味に笑った。
「いい大人が何を言ってるんだ、って感じですよね」
梨都子は私の肩にぽんと手を乗せて、さらに私の耳に顔を寄せると、声を潜めて言った。
「結論から言うと、自然の流れに任せなさい、かな。大丈夫よ、なんとかなるもんだって。というか、怖いとか不安に思ってることを、彼に正直に言ってみたらいいんじゃないかな。彼が碧ちゃんを大事に思っているんなら、ちゃんと話を聞いてくれて、嫌がることはしないはずでしょ?」
「そう、なのかな……」
「そうよ。それに、碧ちゃんがいいって思った時がその時だと思うよ。無理する必要なんてないよ」
「そっか。そうですよね……」
自分に言い聞かせるように私はつぶやく。
梨都子は私のグラスに氷を足しながら頰を緩めて、にこっと笑った。
「いいなぁ、付き合いたてかぁ。久々に会ったんだから、惚気話の一つも聞かないと今日は帰れないわ。碧ちゃんに彼氏ができるの、お姉さんは楽しみにしていたんだからね」
女同士の話が終わったことを察知して、清水が会話に入って来た。
「俺にも聞かせてよ。碧ちゃんがつき合う男ってどんなやつなのか、ちょっと興味あるわ」
清水も来ていることが分かった時点で、色々と聞かれることは覚悟したものの、実際に二人に挟み込まれて私はたじろぐ。
「たまには人の恋バナを聞いて、刺激をもらわないとね。――それで、その彼氏、どんな人?」
梨都子が目を輝かせながら、私の方にずいっと身を乗り出した。