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築島課長の歓迎会は、就任した翌週の金曜日に行われた。詩織ちゃんは張り切ってお店選びをしてくれたが、結局幹事は詩織ちゃんの手を離れて私に回ってきた。
「ええぇー! 庶務課だけでやるんじゃないですか?」
二日前、念のためにと確認した私に、詩織ちゃんはそう言った。
確認しておいて良かった……。
「庶務課だけの親睦会の前に、まずは総務部全体でやらなきゃ」
「それじゃあ、お店貸し切りくらいの人数じゃないですか。そんなの今から探せないですよ!」
だろうね……。
結局、幹事を引き受けた私は、日頃から懇意にしているバーに無理を言って店を貸し切った。基本は立食にして、部長と課長の席だけ設けてもらい、食事もビュッフェスタイルにして店に負担の掛からないようセッティングした。
「幹事、お疲れさん」
部長の挨拶の後で、食事を取りに立った藤川総務課長に声をかけられた。社内では秘密だが、彼は私の従兄妹だ。
「ほんと、疲れました……」
私は小声で言った。
「詩織ちゃん……だっけ? 部長そっちのけで築島課長に料理運んでたぞ」
「マジでっ?」
「マジで」
部長と課長三人の席は店の奥で、私の位置からは様子が窺えなかった。私は持っていた皿に何品かの料理をのせて、部長の席に急いだ。
ちょうど、詩織ちゃんが築島課長の前に皿を並べているところだった。よりによって課長の正面には部長が座っている。課長の笑顔が引きつっているのが見て取れた。課長の口が開く前に、何とか私の皿が部長の前に収まった。
「部長、どうぞ」
「ありがとう、成瀬さん」
部長はちらりと詩織ちゃんを見て、私が持って来た料理に箸をつけた。
「部長、すみません。彼女にはあとで言って聞かせますので」
私は身を屈めて小声で部長に言った。
「任せますよ」
部長は穏やかに言って、ジョッキに口をつけた。
「二杯目は日本酒のカロリーオフにしましょうか?」
「あるんですか?」と部長は聞き返した。
「持ち込みですが。それと、こちらのお店は女性客向けのヘルシーメニューばかりですから、どうぞ召し上がってください」
「ありがたいです」
部長のそばを離れようとしたとき、藤川課長が料理を手に席に戻ってきた。私は『ありがとう』と目配せした。
部長に日本酒を運んで、私は今度こそ自分用の料理を取ってテーブルに戻った。テーブルには満井くんと春田さん、遠山さんがいた。
「課長から香山さんにビシッと言ってもらったら?」
遠山さんがワイングラスを片手に言った。子供がいるから飲み会に参加することは珍しい。
「牧課長は叱るより褒めて伸ばそうとしてたけど、ああいう子はがっつり叱られなきゃわからないでしょ。若いイケメンに言われたら、少しは効果あるんじゃない?」
日頃の遠山さんは自分の仕事は完璧にこなして、他の業務には口を挟まない。だから、こんな風にはっきりと詩織ちゃんを悪く言うのを初めて聞いた。
遠山さんが詩織ちゃんを嫌っていることはわかっていたけど。
「そうですよ。甘やかしたらどこまでもつけあがりますよ」
満井くんも同調して、ジョッキに半分ほどのビールを一気に流し込んだ。
「詩織ちゃんのことは月曜日に考えます……。とりあえず、お腹空いたので」
私は勢いよくジョッキを空にした。
一時間ほどして、部長が多めの会費を置いて一番最初に店を出た。幹事の私と、主役の築島課長が店の外まで見送りに出た。
「成瀬さん、色々と気遣ってくれてありがとう。楽しかったよ」
部長にそう言われて、ホッとした。
「成瀬さん、この後は?」
部長の乗ったタクシーを見送りながら、課長が聞いた。
「あ、お店は一晩貸し切っているので二次会は予定してないんです」
「聞き方が悪かったね。この後二人で飲まない?」
課長は挨拶をするかのように、さらりと言った。
この人……、遊んでるな。
「二人で……というのは——」
私の言葉を遮って、店のドアが開いた。
「課長、私もお先に失礼します」
遠山さんと数人が出てきた。
「ああ。今日はありがとう、気を付けて」
課長が遠山さんたちを見送っている間に、私は店の中に戻った。
部長が帰って、店内はくだけた感じで盛り上がっていた。遠山さんが帰って、満井さんと春田さんもテーブルを異動していた。私が一人で自分のジョッキの元へ戻ると、ソーセージとチーズの皿が目の前に置かれた。
「ちゃんと食ってるか?」
藤川課長が自分のグラスを持って私の正面に立った。
「女の子たちの相手はいいんですか?」
「たまには清水課長にも花を持たせてあげないと」
藤川課長は三十二歳の独身で、二十九歳の若さで課長になったエリート。飲み会ではいつも女子社員に囲まれている。
清水経理課長は三十五歳の既婚者で、去年やっと課長に昇進した。自分より若い藤川課長が自分より早く昇進したことをひがんで、勝手にライバル視している。
「なるほど」
私は藤川課長が持ってきてくれたソーセージにフォークを刺した。スパイスが効いていて、ビールによく合う。
「新しい課長はどうだ?」
藤川課長はチーズを口に放り込んだ。
「仕事の面では言うことないね」
「というと?」
私はテーブルに肘をついて、藤川課長に身を寄せた。少しボリュームを落として言う。
「さっき二人で飲まないかって誘われた」
「へぇ。行くの?」
「バタバタして返事してない」
「興味あるんだろ」
藤川課長もにやけ顔で私に顔を近づけた。
「お前が断らない、ってことはそういうことだろ?」
「そんなんじゃないよ。ちょっと気になることがあるだけ」
「気になるとは?」
藤川課長のグラスからウイスキーの香りがした。
「調査報告が遅いんだよねー」
私はソーセージを頬張りながら言った。
「なるほど、そっちか」
藤川課長はグラスを空にした。私にお代わりを聞くと、バーカウンターに注文に行った。
「藤川課長と親しいの?」
背後からの声に振り返ると、築島課長がジョッキを持って立っていた。とても自然な足取りで私の隣に立つ。
「課長って女性をきらしたことないでしょう?」
いつも通り調査報告が届いていれば言わなかったであろうことを、言った。
「そんなに遊んでるように見える?」
藤川課長がカウンターからこっちを見ている。
「遊びかはわかりませんけど、女性の扱いに慣れているのはわかります」
わざと、少し突き放すように声のトーンを下げた。目も合わせない。
「不愉快?」
「いえ? 私には関係ありませんから」
「関係あるでしょ。俺に誘われてるんだから」
テンポのいい会話が途切れた。強い視線を感じて、思わず課長を見上げた。いつもの爽やかな笑顔ではなく、無表情に近い、鋭い視線が向けられていた。
なんだろう……。
この視線は好きじゃない。
好きじゃないのに、目が離せない――。
胸の奥がざわつく。
「築島課長はビールが好きなんですか?」
藤川課長がウイスキーのグラスとビールのジョッキを持って戻ってきた。私にジョッキを渡す。私はお礼を言ってジョッキを受け取る。
「何でも飲みますけど、酔いたくない時はビールなんです」と、築島課長はいつもの爽やかな笑顔で言った。
「成瀬と同じですね」
「え?」
「ちゃんぽんすると酔うからって、職場の飲み会ではビールしか飲まないんですよ」
藤川課長は私との関係をにおわせるような言い方をした。牽制のつもりだろう。
「へぇ……。酔うとどうなるのか、興味ありますね」
また、だ。
私の反応を楽しむような、観察するような無表情。藤川課長も気が付いて、目つきが変わった。
ヴゥーヴゥー。
携帯のバイブ音が聞こえて、私たち三人が同時にスマホを取り出した。
私のスマホのディスプレイに〈yu〉の文字。
「すみません、失礼します」
私は〈応答〉ボタンを押しながら店を出た。
ようやくきたか……。
携帯を耳に当てる。
「はい、成瀬」
『お疲れ』
聞き慣れた声。
「お疲れ」
『築島蒼の調査報告だけど、今いい?』
「ん……」
私は部下である、情報システム部極秘戦略課の館山侑から、築島課長に関する調査報告を黙って聞いていた。
学歴、入社後の経歴、交友関係、総務課長として本社に異動になった経緯。一通り説明を終え、侑が言った。
『留意する点は見当たらないと思うけど?』
「ふぅ……ん」
留意する点、ありありだよ。
「ありがと、後は私がやるわ」
私は会話を終えて、店内に戻った。
何が、留意する点はない、よ。
侑の報告では、築島蒼と侑は高校・大学と同窓。それに関して全く触れずに『留意する点はない』なんて、『俺には聞いてくれるな』って言ってるのと同じ。私がそれに気が付いていることも、その上で『私がやる』と言ったことの意味も、侑はわかってる。
「成瀬さん、庶務課で場所を変えて飲み直そうって話してたんですけど、行けますか?」
満井くんに声をかけられて、私はハッとした。
「うん、大丈夫」
満井くんは私の返事を持って、庶務課で集まっているテーブルに戻った。
「怖い顔、してたぞ」
藤川課長が背後に立っていた。
「そう?」
「さっきの築島課長も、同じ顔をしてたな」
「え……」
同じ……?
「お前が本業モードに入った時と同じ顔」
「私、あんな感じ?」
好きじゃないと思った、無表情で突き刺さるような冷たい視線を思い出す。
「ああ……。なんつーか、獲物を狙う獣みたいな?」
獣——。
なるほどね。
私はくすっと笑って、テーブルの下から自分の鞄を取った。
「真、明後日少し手伝って欲しいんだけど」
私が『真』と呼ぶのは完全にプライベートの時だけだ。
「了解。飲み過ぎるなよ、咲」
庶務課の六人で斉川さん行きつけの居酒屋に場所を移し、二時間ほどで解散となった。終始、詩織ちゃんは課長の隣で喋り続け、その様子に満井くんは苛立っていた。私はと春田さんは斉川さんの趣味の釣り話に笑顔で頷いていた。
満井くんと春田さん、詩織ちゃんが一緒にタクシーに乗り込んだ。詩織ちゃんは課長ともう一軒行きたいようだったが、見かねた斉川さんが半ば押し込むようにタクシーに乗せた。
「斉川さん、助かりました」
タクシーが発車すると、課長が言った。
「野暮なことをしたのでなければ良かったです」
斉川さんが人差し指で眼鏡のブリッジをクイッと持ち上げて、言った。
「勘弁してください……」
課長は本当に疲れた様子で肩を落とす。
私と課長、斉川さんは同じタクシーに乗り込んだ。二十分ほど走って、斉川さんが降りた。それから十分ほど走って、課長のマンションに到着した。
「課長、着きましたよ?」
斉川さんが降りた時に起きていた課長が、腕を組んだまま目を閉じていた。
「課長、起きてください」
私が課長の肩を揺すると、瞼がぴくっと動いた。
寝たふりか……。
タクシーの運転手が困った顔で見ていた。私は清算し、わざと課長の耳元で囁いた。
「課長、お手洗いお借りしてもいいですか?」
「いいよ」
即座に目を開けて、課長は答えた。
やっぱり――。
「このマンション、分譲ですよね」
課長はエレベーターの八階ボタンを押した。
「うん」
さすが――。
「さすがボンボンーーって?」
私が思ったことを、課長が言った。
でも、ただのボンボンって感じじゃないんだよなぁ……。
八階の一番奥が課長の部屋だった。課長はカードキーでドアを開けて、私を招き入れた。
「お邪魔します」
「どうぞ。お手洗いはそっちね」
私は課長が指さしたドアに入り、鍵をかけた。洗面所の奥にトイレとバスルーム。
引っ越して間もないせいか、生活感がないな。
私が洗面所を出ると、バサバサッと本や紙が崩れ落ちた時の音が聞こえた。リビングらしき電気が点いている部屋のドアから、様子を窺った。
「課長、入ってもいいですか?」
課長は床に散乱している本や書類を片付けていた。
「いいよ、すぐに片づけるから適当に座ってて」
私は二十畳はありそうなリビングに足を踏み入れた。コの字型のソファに真ん中にはガラスのテーブル、正面にはバカでかいテレビ。
壁には可動式のラックに本がびっちり詰まっていた。
「あの、私は手伝わない方がいいですか?」
課長は本たちに視線を落としたまま、少し間を置いてから顔を上げた。
「うん。ここはいいから、コーヒー淹れてもらっていいかな」
私はキッチンに立った。ケトルとコーヒーメーカー、マグカップが無造作に置かれているだけで、調理道具などはない。私はコーヒーメーカーに手を伸ばした。
私と課長はマグカップを片手に、ソファに座った。私は課長から距離を取って座った。
「本、多いんですね」
「うん。ついつい出しっ放しで積んじゃって」
ざっと見た限り、経営、金融、建築の本が多いようだ。
やっぱり、庶務課なんておかしい……。
私は熱々のコーヒーを一口飲みながら考えた。
とりあえず誘いに乗ってみたけど、さてどうするかな……。
「課長、猫舌ですか?」
私はカップをテーブルに置いた。課長はまだカップに口をつけていない。
「猫舌……ってほどではないけど」
「すみません、気が付かなくて」
「いや……」
課長は口元に笑みを浮かべた。金曜の深夜とは思えない爽やかさ。
私なんて、化粧浮きまくりの疲れた顔してそう……。
「成瀬さんを『メス』にしてくれる人、ってどんな人?」
「はい?」
私は間抜けな声で聞き返した。
「前に言ってたでしょ」
少し考えて、課長とエレベーターで話したことを思い出した。
「ああ!」
「気になってたんだよね。成瀬さんに『メス』って表現、想像つかなくて」
「課長には『オス』って表現が似合いそうですよね」
私は皮肉を込めて言った。
「寝たふりして女を部屋に誘うとか、狙った獲物は逃がさないって感じで」
獲物を狙う獣みたいな? 数時間前に真に言われた言葉が浮かんだ。
私も……?
「狙われてるのが分かってて乗ってきたなら、捕まる気があるってこと?」
「お手洗いを借りたかっただけです」
私はカップを手に取った。課長もカップに口をつける。
気まぐれに、課長とくだらないお喋りをしてみたくなった。
「課長は忘れられない女性っています?」
「本気で好きだった……とかそうゆう?」
「気持ちもそうですけど、あの子はキスが上手かったとか、あの子は身体の相性が良かったとか……。ひとり寝の夜に思い出すような女性です」
「すごいこと言うね」
課長は意外そうに私を見てる。
「私はそうゆう男性、いないんですよね」
「一人も?」
「一人も。これまで付き合った人はいたんですけど、思い出のようなものが一切ないんです。名前とか誕生日とかは記憶にはありますけど、感触とか衝動とか本能で感じる部分は全く思い出せないんです」
「好きで付き合った男たちじゃないの?」
「好き……って感情がいまいちわからないんですよね」
私はカップの温かさを掌に感じて、少しの眠気を意識した。
そろそろ帰らなきゃ……。
「だから、なりふり構わず、自分のものにしたいって、動物みたいな本能で求めたくなるような恋愛をしてみたくて……。別れた後も思い出して涙が出るような人が欲しいなぁ……って——」
「それで、『メス』か……」
やば……、本気で眠くなってきた……。
私はカップをテーブルに置いて、立ち上がった。
「すみません、喋りすぎました。帰ります」
バッグを掴んで玄関に辿り着く少し前で、課長に腕を掴まれた。
「捕まえた獲物、逃がすと思う?」
課長の手が私の肩を抱いて、ゆっくりと顔が近づく。
手慣れてるなぁ……。
こんな時でも冷静にそんなことを考えてしまう自分が嫌だ。私は目を見開いて、真っ直ぐ課長を見た。
「課長も記憶だけの男になります?」
唇が触れるまで数センチのところで、課長は止まった。
「君を『メス』にしてあげられるかもしれないよ?」
「出来なかったら? 私に『へたくそ』って言われても同じ職場で働き続けられます?」
明らかに、課長の表情が曇った。女に『へたくそ』なんて言われたこと、ないのだろう。
「それは……キツイな」
課長は深いため息をついて、私を離した。
私はパンプスを履いて、ドアノブに手をかけた。
「遅くまで、お邪魔しました」
ドアを開けるより先に、背後から手が伸びてきてカチャリと鍵をかけた。
「タクシー呼ぶから、来るまで待って」
「自分で拾いますから」
もう一度課長に腕を掴まれて、私はリビングに連れ戻された。
「残りのコーヒー飲んでる間に来るだろうから、座ってて」
座り直したソファが心地よくて、タクシーを呼ぶ課長の声を聞きながら、私の意識はゆっくりと遠のいていった。