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この女……本気で喰われたいのか?
タクシー会社に電話をして、行き先を聞こうと振り返ると、成瀬はソファに丸くなっていた。タクシーを断って、俺は成瀬の肩を揺すった。
「成瀬さん、成瀬さん!」
だめだ、ピクリとも反応しない。
数分前に自分を襲おうとした男の前で寝るか?
俺はもう一度大きくため息をついて、どうしようか考えた。
とりあえず、ベッドに運ぶ……か?
俺は成瀬の肩と膝裏に手を回し、抱き上げた。
寝室のベッドに成瀬を寝かせ、俺もベッドに腰かけた。ネクタイを外し、シャツのボタンを二つ外した。
疲れたな……。
俺は気持ち良さそうな寝息を立てる成瀬の髪にそっと触れた。次に手の甲で頬に触れた。
私の理想は、私を『メス』にしてくれる人です。
会社で彼女を見ている限り、『メス』なんて彼女に最も不似合いな表現だと思った。仕事は手際よく、ミスもない。周囲をよく見ていて気配りができるし、それでいてでしゃばることもない。ここまで隙のない女に出会ったことがなかった。それだけなら、優秀な部下って存在だったと思う。
先週末、侑から庶務課についての調査報告を受けた時、『成瀬咲についての報告は出来ない』と言われた。
『出来ないとは?』
『言葉通りだよ』
『いや、意味が分かんねぇ』
『察してくれ』
それだけ言って、侑は電話を切った。
出来ない、ってことは、圧力か?
でも、庶務課の女子社員に関する情報で圧力なんて……。
俺はますます成瀬咲に興味を持った。職場での完璧な彼女を見ていると、その彼女が乱れる様を見てみたいと思うことがあった。
惚れた男の前でも、ベッドの中でも、そんなに冷静で完璧なのか――。
乱れる彼女を見るチャンスが訪れたのに、手が出せなかった。
さすがに……『へたくそ』なんて言われたら立ち直れないな。
いや、それよりも思い出してももらえない『記憶だけの男』の方が嫌だな。
そんなことを考えているうちに、俺もベッドに倒れこんだ――。
くすぐった……。
顔をくすぐられて、俺はゆっくりと目覚めた。
いつの間に寝たんだ……?
左腕が痺れて動かない。
甘い香りにもう一度瞼を閉じかけて、ハッとした。
そうだ、成瀬!
俺の顔をくすぐっていたのは、成瀬の長い髪だった。どうしてこうなったかは思い出せないが、成瀬は俺の腕の中で眠っていた。
まさか――!
慌てて布団の中を覗いて、自分も成瀬も服を着ていることにホッとした。布団の中に冷たい空気を感じたのか、成瀬が俺の胸にすり寄ってきた。腕枕をしている左腕がピリピリと痺れていた。
女の隣で眠るなんて初めてじゃないか……?
誰と付き合っても、朝まで一緒に過ごすことはなかった。ベタベタと恋人ごっこは性に合わない。それがまさか、手も出してない部下と朝まで抱き合っていたとは――。
無防備に熟睡してくれちゃって……。
俺は彼女の寝顔を覗き込んだ。
まつ毛なげー。
てか、眉毛がある……。
誰だったか、シャワー浴びたら眉毛がなくなってた女がいたな。
そんなことを考えていたら、成瀬がまたすり寄ってきた。
くそ、可愛いな――。
俺は成瀬を抱く腕に少し力を込めた。彼女の身体が強張る。
「あのっ、課長……」
成瀬の上ずった声。
「おはよう」
「おはよう……ございます。あの、離して……」
離れがたい気持ちを殺して、俺はぱっと成瀬を離して、起き上がった。
「言っとくけど、すり寄ってきたのは成瀬さんだよ」
「すみません……」
「自分に下心を持ってる男の前で熟睡するなんて、なにされても文句言えないよ?」
わざと意地悪を言って、成瀬の顔を覗き込んだ。意外にも、成瀬は顔を真っ赤にして硬直していた。
「すみま……せん」
「心配しなくても、何もしてないよ」
成瀬が泣き出すかと思って、俺はベッドから出て、腕を伸ばし、大きく伸びをした。
「コーヒー淹れようか」
「いえっ! 帰ります‼」
成瀬は飛び起きると、瞬く間に寝室を出て行った。
へっ――?
不意を突かれて出遅れているうちに、カチャッと玄関の鍵が外される音がした。
「ご迷惑おかけしました。失礼します!」
慌てて寝室を出ると、玄関のドアがバタンと閉まった。
*****
「悪かったな、お楽しみの邪魔をして」
俺はワイングラスを手渡しながら、言った。
昼間の電話の向こうで女の声がした。侑に女がいることは気が付いていたが、直接そのことで話をしたことはなかった。
「全くだよ」
侑はグラスにワインを注ぐ。
「付き合い長いのか?」
「ああ……三年くらい?」
侑はテーブルに広げたチーズやナッツに手を伸ばした。
「お前、これまでにそんなに長く続いたことあったか?」
「ないな」
即答。
「結婚とか……?」
「相手次第だな」
「マジか――」
「子供が欲しいとか思うわけじゃないけど、別れが想像できないからな。選択肢の一つとしてあり得ないことではないって感じだな」
侑はワインを一口飲んで、ソファに深く座り直した。
「格好いいな」
侑は少し驚いた表情で俺を見た。
「なんとなく、お前は俺と同じで結婚には興味ないのかと思ってたよ」
「あいつと会う前はそうだったな」
「ベタ惚れか」
「俺が必死で口説き落とした女だからな。今も気ぃ抜くとあっさり捨てられそうだし」
「へぇ、どんな女か興味あるな」
侑は少し考え込んで、言った。
「成瀬咲」
俺は言葉を失った。
成瀬が侑の女――?
脳裏に今朝の、無防備に俺の胸にすり寄ってきた成瀬の姿が浮かんだ。
「なんて顔してんだよ。嘘だよ」
「お前……焦らせんなよ――」
俺は頭を抱えて、大きく息を吐いた。
「成瀬咲と寝たのか?」
「寝てない」
俺もワイングラスに口をつけた。
今日一日、何度成瀬のことを考えただろう。電話してみようかとも思ったが、結局やめた。
成瀬の寝顔や抱き締めた感触が生々しく思い出される。
「職場の女には手を出さないんだっけ?」
「一応……」
「でも、興味あるんだ」
「お前が『成瀬咲についての報告は出来ない』とか意味ありげなことを言うからだろ。なんなんだよ」
俺はまた大きなため息をつく。半日を悶々とした気持ちで過ごして、結局侑に直接聞くことにした。
「お前、成瀬咲とは面識があるのか? 同期だよな」
「ああ、よく知ってるよ」
「成瀬って藤川総務課長と付き合ってんのか?」
「かなり親しいけど、健全な関係だよ」
侑はニヤッと笑って俺を見た。
何ホッとしてんだよ、俺……。
「成瀬に惚れたか?」
惚れ――?
侑にはっきりと言葉にされて、すとんと胸に収まった。
「惚れて……る……か?」
「お前、思春期のガキみたいな顔してるぞ」
「いやいや、ないだろ!」
俺は慌てて口元を手で覆った。
俺が成瀬に惚れてる――?
「蒼、お前が本気で成瀬に惚れてるなら、俺が知ってる成瀬のことを教えてもいい。親友としてな」
「仕事上の好奇心なら?」
「この話はこれで終わりだ」
くそ、なんなんだよ!
俺が返事に困っているうちに、侑がグラスを飲み干して立ち上がった。
「蒼、俺は今の女と出会わなかったら、成瀬に惚れてたかもしれない」
「は?」
「いい女だよ、成瀬は。けど、遊びで手を出していい女じゃない」
侑はソファに掛けておいたジャケットを羽織り、テーブルに置いてあったスマホをジャケットの内ポケットに入れた。
「それは……わかるけど」
「お前の気持ちがはっきりしたら、連絡しろ」
はっきりって……。
「蒼、成瀬にならお前を任せられる」
「逆じゃないのかよ」
「ああ」
侑はそのまま帰っていった。
玄関のドアがバタンと閉まる音を聞いて、俺はまた顔を赤らめて出て行った成瀬の姿を思い出していた――。