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#ワンナイトラブ
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月曜日の朝
私はいつも通り、シルバーフレームの眼鏡をかけ
一糸乱れぬ夜会巻きに髪をまとめ上げた「氷室秘書」としてオフィスに立っていた。
けれど、昨日までと決定的に違うものが一つだけある。
左手の薬指を飾るはずの、あの重厚なダイヤのリング。
それは今、ブラウスの奥──
首から下げた細いプラチナチェーンの先に通され、私の肌に直接触れる場所で秘かに重みを主張していた。
「……おはようございます、青桐社長。本日のスケジュールです」
「ああ、おはよう。そこに置いておいてくれ」
CEOルーム。京介はデスクに向かい、私に一瞥もくれずに淡々と答える。
その徹底した「上司」としての無機質な振る舞いに
私はどこか安堵し、同時に微かな寂しさを覚える自分に戸惑っていた。
昨夜、あの広すぎるマンションの別々の部屋で眠りについた私たちは
今朝も示し合わせたように時間をずらして出社した。
誰にも、一ミリも疑われてはいけない。
これは完璧な秘書としての、新たな、そして最も難易度の高い「極秘プロジェクト」なのだ。
しかし、役員会議室でのプレゼンの最中だった。
私が補足資料を配りながら、次世代プロジェクトの概要を説明していたとき
ふいに、背中を焼くような視線を感じて顔を上げた。
そこには、居並ぶ役員たちの背後から、私をじっと見つめる京介の瞳があった。
(……え?)
それは、仕事中の冷徹で鋭い眼差しではなかった。
昨夜、リビングでコーヒーを飲みながら
リラックスした格好の私を眺めていたときの───
あの、甘く熱を帯びた「男」の目だ。
一瞬、思考が真っ白に染まる。
心臓が騒がしく跳ね、資料を持つ指先がわずかに震えた。
「氷室さん、どうしました? ページの手が止まっていますよ」
隣に座る専務に指摘され、私は弾かれたように視線を落とした。
「失礼いたしました。……少々失念しておりました。続けます」
いけない。私はプロだ。
公私混同なんて、あってはならない恥ずべきこと。
自分に強く言い聞かせ、必死で平穏を装う。
けれど、向けられ続ける視線の残熱が、皮膚の下でずっと疼いていた。
会議が終わり、資料を片付けてエレベーターホールで一人になった瞬間。
背後から、聞き慣れた確かな足音が近づいてきた。
「……志乃」
低く、密やかな、けれど鼓膜を震わせるような声。
周囲に人影がないことを確認した京介が、私のすぐ真後ろに立った。
「社長、ここは会社です。その呼び方は控えていただかないと……」
「誰も見ていない。……それより、さっきのプレゼン。眼鏡のずれを直した拍子に、ブラウスの隙間からチェーンが見えかけていたぞ」
「っ……!」
京介の指先が、私のブラウスの第一ボタン付近に、羽のようにかすかに触れた。
冷たいはずの指先が、驚くほど熱く感じられて、私は呼吸の仕方を忘れてしまう。
「……以後、厳重に気をつけます」
「ああ、気をつけてくれ。……あんな無防備な隙を、俺以外の男に見せられるのは、どうにも面白くないからな」
彼はそれだけを言い残すと、何事もなかったかのような優雅な足取りでエレベーターに乗り込んでいった。
閉まるドアの向こうで、彼が最後に浮かべた不敵な笑みが脳裏に焼き付いて離れない。
残された私は、火照る頬を冷ますように、手首のあたりを強く握りしめて立ち尽くした。
完璧に「仕事」として演じているつもりだった。
けれど、彼と視線が合うたび、肌に触れられた記憶が鮮明に蘇る。
オフィスという見慣れた日常の風景が、彼という存在のせいで、じわじわと甘く
そして逃げ場のない息苦しい場所へと塗り替えられていくのを、私は抗いようもなく感じていた。