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会議を終え、張り詰めていた空気を解いてフロアに戻ると、そこに瀬名の姿はなかった。
いつもなら、理人の帰還を待っていたかのように真っ先に駆け寄ってくるのに。珍しいこともあるものだと、理人は不自然なほど静かな瀬名のデスクを横目に首を傾げた。
「瀬名さんなら、さっき呼び出しがあって出ていきましたよ」
無意識に辺りを探していた視線に気づいたのか、萩原が親切心から声をかけてきた。
「そ、そうか……。まぁ別に、私はあいつを探していたわけではないんだが……」
心中を見透かされたようでくすぐったい気持ちになり、理人はわざとらしく咳払いをして書類を整えるふりをした。ふと見れば、瀬名の机には書きかけの書類が置き去りにされている。
そんなに慌てて持ち場を離れなければならないような急用だったのだろうか。
「あぁ、そういえば……なんか綺麗な人が瀬名さんのことを待ってるって、女子たちが噂してましたよ。彼女ですかねぇ?」
「……へ、へぇ……。彼女……」
屈託のない萩原の言葉に、理人の頬がぴくりと引きつった。相手に悪気がないと分かっているからこそ、否定も追及もできない。
理人は平静を装いながら自席に戻ったが、心臓が嫌な音を立てて波打つのを感じていた。 瀬名を呼び出した「綺麗な人」……もしかして、先日の真奈美と言う女性のことだろうか。
わざわざ職場まで押しかけてくるなんて、一体どういう関係だというのか。
胸の奥がざわついて落ち着かない。しばらくして戻ってきた瀬名の腕には、花柄の大きめな包みが抱えられていた。
「彼女さんからの差し入れですか? もしかして 愛妻弁当? わざわざ届けてくれるなんて、羨ましいなぁ」
すかさず萩原が茶化すような口調で割って入る。瀬名は困ったように眉を下げて笑いながらも、その表情はどこか嬉しげに見えた。周囲の社員たちに囲まれ、和やかに談笑するその輪の中に、理人の入る隙間など微塵もなかった。
「チッ……」
その光景を直視するに堪えず、理人は乱暴に椅子を引いて立ち上がると、逃げるようにオフィスを飛び出した。
昼休みに入ったばかりの社員食堂はまだ閑散としていて、数人の社員がまばらに食事を摂っているだけだった。適当に注文を済ませ、一番端の空いている席に座ると、理人はこれ見よがしに盛大な溜息を吐き出した。
瀬名が女と会っているかもしれない。ただそれだけのことに、ここまで無様に動揺してしまう自分が情けない。 今まで散々愛しているだのなんだのと甘い言葉を囁き、指輪まで強引に寄越しておきながら、職場で堂々と女からの包みを受け取れる神経が信じられなかった。
考えれば考えるほど、腹の底から黒いイライラがせり上がってくる。瀬名への怒りと、それに振り回される自分の不甲斐なさに。
よく考えれば、自分たちの関係は身体から始まったようなものだ。結局のところ、瀬名にとって自分は都合の良い性欲処理の道具に過ぎなかったのではないか。
自分だって、初めはそう思っていたはずだった。実際、瀬名との行為は快楽に満ちていたし、今まで相手にしてきたどの男よりも彼は「上手かった」。
だが、いつの間にかその心地よさに溺れ、心までも奪われていたのは理人の方だったのだ。抱かれるたびに心が満たされ、気づけば彼なしではいられないほど惹かれてしまっていた。瀬名も同じ気持ちだと、愚かにも信じていたのに――。
(……やはり、愛だの恋だの、そんな感情なんて必要なかったんだ)
そんな形のないものに縋るから、こんなにも胸が苦しい。 知らなければよかった。瀬名の体温も、二人で過ごす時間が「幸せだ」と感じてしまうこの瞬間も。
気づかなければ、もっと器用に、さっさと割り切れたはずなのに。
(クソッ)
込み上げてくる熱いものを奥歯を噛み締めて堪えながら、理人は乱暴に食事を口に運んだ。好物なはずのオムライスも、今日に限っては砂を噛んでいるようで何の味もしない。
ただ、苦々しい孤独感だけが、喉の奥に広がっていくばかりだった。
「……飯はもう少し、美味そうに食うもんじゃねぇのか?」
カチャリ、と向かいにトレイが置かれる音が響いた。聞き覚えのある低い声に弾かれたように顔を上げると、そこには呆れたような表情を浮かべた一臣が、当然のような顔をして腰を下ろしていた。
先程の会議で見せていた隙のない三つ揃えのスーツとは打って変わり、今の彼は随分とラフな出で立ちだ。
肩の力の抜けたダークネイビーのアンコンジャケットに、インナーは襟元の詰まった薄手の白いモックネック。ボトムスには、体型に完璧にフィットした濃紺のデニムを合わせている。
職場という枠組みを壊さない程度の節度を守りつつも、一歩間違えればモデルのオフショットかと思えるほどに、その装いは都会的で洗練されていた。
研修中の身と言っていたから、現場を回るために動きやすい格好をしているのだろうか。
(……というか、なんでわざわざここに座るんだ)
食堂は広く、空いている席などいくらでもある。それなのに、なぜ一臣はピンポイントで理人の正面を選んだのか。
内心で盛大に毒づきつつも、今の理人には彼とまともにやり取りをする気力も余裕も残っていない。
視線を落として無視を決め込んだが、一臣はそんな理人の刺々しい心情を知ってか知らずか、特に気にした風もなく悠然と料理に手を付け始めた。
長い脚を持て余すようにして座る一臣の存在感は、それだけで周囲の空気を圧迫する。
理人は彼を視界に入れないよう努めながら、無機質な動作でスプーンを動かした。 カチカチと食器の当たる音だけが虚しく響く。
しばらくの間、重苦しい沈黙の中で二人は箸を動かしていたが、やがて一臣の方から静かに口を開いた。