テラーノベル
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行く当てもないまま、俊介は夜道を歩いていた。
冷たい風が頬を撫でても、頭の中に渦巻くものは少しも冷えてくれない。
『自業自得っていうか……』
『じゃあ、どうして一花さんだけが狙われたの?』
『……化け物みたいな顔で、俺の前に立つなよ……!』
自分が口にした言葉まで何度も蘇り、俊介は苦しげに顔を歪めた。
「……最低だな」
吐き出した声が、夜の中へ消えていく。
一花が風俗で働いていたなんて嘘だ。水野と何か関係があったという証拠だって、何ひとつない。
それなのに自分は周囲の言葉に引きずられ、一花を疑った挙げ句、最も傷つける言葉まで浴びせてしまった。
歩けば歩くほど、胸の奥に溜まったものが息苦しさへ変わっていく。
人気のない道へ差しかかった時だった。
「どうも、ご無沙汰してます——桜井俊介さん」
低い声に呼び止められ、俊介は足を止めた。
前方には三人の男が立っていて、その顔を見た途端、俊介の表情が強張る。
「……何だよ」
「いやあ、なかなか連絡つかないもんで」
一人が馴れ馴れしい笑みを浮かべた。
「大変だったみたいですねえ。火事」
俊介の眉間に皺が寄る。
「お前ら……」
「ニュースにもなってましたよね。保険も下りるんでしょ?」
「だったら、残りも払えますよね」
「保険の金は生活を立て直すためのものだ。息子にも必要なんだ」
「そんなこと、こっちには関係ないんですよ」
男は肩をすくめ、薄く笑った。
「金に名前なんか書いてないでしょう?」
その言い草を聞いた途端、俊介の口元から乾いた笑いが漏れた。
「……ハイエナが」
「何だと?」
「お前ら、ハイエナ以下のゴミだ」
男たちの顔色が変わり、次の瞬間には胸ぐらを掴まれていた。
けれど、俊介にはもう抵抗するだけの気力さえ残っていない。
殴られてもいい。どこかへ連れていかれてもいい。
そんな投げやりな気持ちのまま、俊介は力なく呟いた。
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きなこもち
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#サレ妻
都築七美
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「……もう、好きにしてくれ」
「おい、連れてけ」
一人が俊介の腕を掴み、路肩に停めてある車へ引っ張っていく。
その時、一台の黒い高級車が彼らのそばへ滑り込むように停まった。
男たちが一斉に振り返る。
後部座席の扉が開き、黒いハイヒールがアスファルトへ降りる。
硬い踵が立てた音だけが、静かな夜道に澄んで響いた。
「その人を離してくださる?」
聞き覚えのある声に、俊介が顔を上げる。
「……牡丹?」
そこに立っていたのは、数日前に自分から別れを告げたはずの牡丹だった。
その後ろには、黒いスーツ姿の男が一人控えている。
「誰だ、あんた」
借金取りの一人が訝しげに睨む。
それでも牡丹は少しも動じず、俊介の胸ぐらを掴んでいる男へ視線を向けた。
「乱暴はやめていただけますか?」
「は? あんたに関係ねえだろ」
牡丹は答えず、後ろに控えていた男へ目を向けた。
すると男が、一通の厚い封筒を差し出す。
牡丹はそれを受け取り、借金取りたちの前へ差し出した。
「どうぞ」
「……何だよ、これ」
男が警戒しながら封筒を受け取る。
中を覗いた途端、その表情が変わった。
隣にいた二人も中身を確かめ、顔を見合わせる。
そこには、返済額を大きく上回る札束が入っていた。
「……ずいぶん気前がいいな」
「こちらはすべて差し上げます」
牡丹は穏やかに微笑んだ。
「その代わり、二度とこの人に近づかないでください」
男の一人が、封筒を手にしたまま鼻で笑う。
「金もらったからって、それで全部終わるとは限らねえぞ」
「また来るかもしれねぇ」
牡丹の笑みは崩れなかった。
「約束が守れないなら」
その声から、わずかに温度が消える。
「次は、西園寺グループが相手になります」
男たちの表情が変わった。
「……西園寺?」
三人は互いの顔を見合わせる。
先ほどまでの威勢は消え、俊介を掴んでいた手もゆっくりと離れていった。
「……分かったよ」
吐き捨てるようにそう言うと、男たちは封筒を持って車へ戻る。
やがてエンジン音が遠ざかり、人気のない夜道に静けさが戻った。
俊介は呆然と牡丹を見つめていた。
「……なんで」
声が掠れる。
「なんで、ここに……」
数日前、自分から終わらせたはずだった。
これ以上一花を裏切れないからと、牡丹へ別れを告げた。
それなのに、何もかもに追い詰められた今、目の前に現れたのは牡丹だった。
長い間、自分を苦しめてきた借金まで、まるで最初から大した問題ではなかったかのように片づけてしまった。
「牡丹……俺……」
そこまで言ったところで、全身から力が抜けた。
俊介はその場へ崩れるように座り込む。
長く背負ってきた借金も、火事のことも、眠ったままの悠真も、泣いていた一花の顔も。
そして、ほんの少し前に自分が浴びせてしまった言葉まで、堰を切ったように押し寄せてくる。
「……俺、何やってんだろ」
掠れた声とともに、俊介の頬を涙が伝った。
一度溢れ始めると、もう自分では止められなかった。
牡丹は何も言わず、俊介の前へしゃがみ込む。
バッグから白いハンカチを取り出すと、その涙をそっと拭った。
「俊介さん」
牡丹の声は、どこまでも優しかった。
「もう頑張らなくていいのよ」
俊介は俯いたまま、何も答えられない。
「もし本当に苦しくなったら、いつでも戻ってきてって言ったでしょう?」
その言葉に、数日前の記憶が蘇る。
『俊介がそうしたいなら、私は止めないわ』
『でも、もし本当に苦しくなったら……いつでも戻ってきて』
『あなたが望むなら、私が全部どうにかするから』
頬を伝った新たな涙を、牡丹のハンカチが静かに拭う。
責めることも、理由を問いただすこともなく、牡丹はただ俊介のそばにいた。
やがて立ち上がると、俊介へ手を差し伸べる。
「帰りましょう」
一花の泣いた顔が浮かぶ。
春子のことも、今も眠り続ける悠真のことも、忘れたわけではない。
何より、ついさっき自分が一花へ浴びせた言葉が、胸の奥に深く突き刺さったままだった。
俊介はしばらく動けないまま、その手を見つめ続けた。
差し伸べられた牡丹の手が、地獄の底まで落ちた自分の前に垂らされた、一本の蜘蛛の糸のように見える。
現場まで訪ねてきた牡丹が、周囲の目も気にせず、汚れた俊介の頬へハンカチを当ててくれた日のことを思い出す。
あの時、自分だけが選ばれたような、ほんの少し特別な人間になれたような気がした。
今、この手を掴めば――また、あの場所へ戻れる気がした。
惨めな自分ではなく、牡丹に選ばれる人間に。
やがて俊介は、震える指先を伸ばす。
牡丹の手が、その手を包み込んだ。
それが救いなのか、その先に何が待っているのか。
俊介には、もう考える力も残っていなかった。
ただ――目の前に垂らされた蜘蛛の糸を、掴む。
そして俊介は、その糸をのぼることを選んだ。
コメント
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うわあ、今回も重くて、でもすごく惹き込まれました……。俊介が地獄のどん底で、それでも差し伸べられた牡丹の手を「蜘蛛の糸」と捉えて掴むラスト、本当に胸に来ました。彼が自分から牡丹に別れを告げたエピソードを知っているからこそ、ここで彼女が「もう頑張らなくていい」と迎え入れる優しさが沁みます。一花への罪悪感との葛藤もまだまだ続きそうで、続きが気になります……!