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玲子のしつこさに、さすがの岩崎も眉を潜め立ち止まる。
「二代目も中村も先に行ってくれ」
話をつけて追いつくと岩崎は言い、心配そうにしている月子へ二代目達と一緒に行く様に微笑みかけた。
岩崎が一人になるのが分かっていたかのように、玲子が駆けてきた。
「先生。分からないところがあるのです!どうしても、アダージョへの移行が上手く行かなくて、でも、どうしてそこで、アダージョなのかも、分からないのです」
玲子の食い下がるような質問に、
「一ノ瀬君。何を言っているんだ。君のピアノ演奏は立派なものだ。分からないところは、楽譜を読み込みなさい。君のテクニックはもう、十分だ。一人でも大丈夫だろう?」
岩崎は、諭すように語りかけた。
「わ、私は、一人では、まだまだです!ですから、先生にご教授頂いて、だからこそ、今度の発表会では、先生に、岩崎先生に私の演奏を、合奏でリードして頂きたいのです!」
熱弁を振るう玲子は、次第に声が大きくなって行く。
それは聞くなと言われても、離れれている月子の耳にも届くものだった。
当然、月子には何を話しているのか分からなかった。むしろ、その分からない話を玲子が岩崎と交わしているのが、何か、もやもやした。
手を繋いでいるお咲が、心配そうに月子を見上げている。
「……お咲ちゃん。お腹減ったよね。行こう……」
まるで、お咲をだしにして、自分を誤魔化し無理に、二代目達へ合流しようとする月子の耳を岩崎の大声がつんざいた。
「だから!何度言えばわかるのだね!一ノ瀬君!私は、合奏などしない!しかも、学生の発表会だ。各々の力量を見せる場所で教師が演奏してどうする!それに!言ったように、君には実力がある!だから、今回の演奏会は、君が最後に演奏するよう、演目を立てている。私は、君には期待しているんだよ!」
岩崎の厳しく、しかし、説得するかのような口調に玲子は、キッと睨み付け反応した。
「わ、私は!!私は!!もう、ピアノは弾けないんです!!続けたかった!でも、でも、私はっ!!」
苦しげにそこまで言うと、玲子は、いきなり岩崎の胸元へ飛び込んだ。
しっかりしがみつき、なお、自身の言葉を続ける。
「私は、お見合いさせられるんです。そして、今度の演奏会が、最後に……。お見合い相手と結婚して、そのお相手にピアノを聞かせれば良い、そんな理由で、私は学校を退学させられる。もっと、技を極めて音楽家になりたいのに!親の決めた相手と結婚するため、その結婚のため、ピアノを習わせられていただなんて!!」
玲子は、さらに、岩崎にしがみついた。
「私は、私は、先生のことを、岩崎先生のことをずっとお慕いしておりました!それなのに!!それなのに!!お見合いだなんて!退学だなんて!!」
そこまで言うと、玲子は顔を上げ岩崎をしっかりと見る。
「……先生……」
ポツリと呟き、岩崎の言葉を、いや、返事を玲子は待っているようだった。
「一ノ瀬君……。ご結婚おめでとう」
聞こえてしまったやり取りに、月子の体からは血の気が引いていた。
おおよそ、玲子の岩崎への気持ちは感じ取っていたが、ハッキリと自分の意志を口にする玲子に、月子は、敗北的な気持ちを感じた。
──言わなければわからない。
ちゃんと言葉にしなさいと常に岩崎に言われている。
玲子は、月子が出来ないことを、成し遂げていた。それも、岩崎の事を慕っていると言いきったのだ。
月子は、どうしようもなくなり、立ちすくんでいた。
小さなお咲の手が、月子の手をぎゅっと握ってくる。
……しっかりしなければ。
瞬時に思うが、それでも、気が動転し立っているのがやっとだった。
「一ノ瀬君。幸せに。そして、学校を退学するというのは、もう少し先伸ばしにできるんじゃないかね?卒業まであと少しだ。結婚までも、いくらか時間があるだろう。君も少し落ちつきなさい」
「違う!!違いますっ!!私が聞きたいのは、そんな言葉じゃないっ!!」
玲子は岩崎にすがりつつ、とりみだした。
「一ノ瀬君。私も結婚する。私には、月子がいる。そして、月子に、私の音楽を聞かせてやりたいのだ……お互い、大切な人に音楽を聞かせる事ができて幸せではないかい?」
岩崎は、玲子をあやすかのように、優しく、それでも、きっぱりと自身の気持ちを告げた。
月子がいる。月子に音楽を聞かせたい。大切な人に──。
その言葉を聞いて、月子は胸が熱くなった。
同時に、ほっとした。
音楽について、対等に話し合える二人。そんな二人こそ、お似合いだと、月子は心のどこかで小さくなっていたのだ。
「一ノ瀬君。お相手に君のピアノを聞かせてあげなさい。きっと、喜んでくれるだろう」
岩崎は、しがみついている玲子に別段慌てることなく、これからの幸せを願っていると大きく頷いた。
「……そんな……私は!!先生のことを!!」
ポロポロと涙を流し、玲子は岩崎から離れると、耐えられないのか、逃げるよう駆け出した。
泣きじゃくりながら、玲子は月子の側を駆け抜ける。
「あなたが!あなたがいるからよっ!!」
悔し紛れに叫び、玲子はそのまま校門を飛び出し表へ出ていってしまった。
あまりの有り様に、二代目も中村もさすがに何も言えず、立ちつくしている。
「月子!!」
岩崎が振り返り月子の名を呼んだ。