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コンビニの自動ドアが開くときの「ウィン」という音は、
もう一年近く聞き慣れているはずなのに、今日はいつもより少しだけ落ち着かなかった。
土曜の夕方。
高二の終わりから続けているこのバイトも、
高三になってからはシフトを減らして、今は週一か二くらいにしている。
胸の名札には「安藤」の文字。
制服のポロシャツの襟が、なんとなくいつもより重たい気がした。
さっきまで行っていた塾は、駅の反対側。
そこのビルの一階にもコンビニがあって、「アルバイト募集」の紙が貼ってあった。
──でも、俺が働いているのは、家の近くのこの店だ。
「いらっしゃいませー」
口は勝手に動く。
レジで商品をスキャンしながら、
頭の片隅では、さっき塾で山本さんに言われたことを何度も反芻していた。
――勉強ってさ、“選べるカードを増やす作業”だと思えばさ。
手札。
カード。
行ける場所。
「ピッ、ピッ」
バーコードを読み取る音が、
やけに単調なBGMに聞こえる。
ひと段落して、客の途切れた時間帯。
店内BGMと冷蔵ケースのモーター音だけが、静かに鳴っている。
バックヤードから、店長が出てきた。
名札には「石田」。
四十代くらい。
この店に来たときから、ずっとここで回しているベテランだ。
「お、安藤。今日もお疲れさん」
「お疲れさまです」
石田店長は、レジ横のホットスナックのケースを確認しながら言った。
「この前、お母さん来てたぞ」
「えっ」
「“うちの子がいつもお世話になってます”って。
模試の話も、ちょっとしてたな」
「……情報網、強くないですかうちの親」
思わず顔をしかめると、店長はククッと笑った。
「で、どうだったんだ。模試」
「ギリ、死んではいないレベルです」
「それならまだ大丈夫だな」
そう言いながらも、
店長の視線は一瞬だけ、俺の顔色を探るように真面目になる。
「塾も行き始めたんだって?」
「体験だけですけど。
“行け”って言われたら行くし、
“自分でやれ”って言われたら、まあ……なんとかします」
自分で言っておきながら、
「なんとかするって何だよ」と心の中でツッコむ。
石田店長は、レジ台に手をついてこちらを見た。
「安藤はさ、高校のあと、どうしたいんだ?」
この質問、もう何回目だろう。
先生にも、クラスメイトにも、塾の先生にも聞かれたやつだ。
「……正直、まだ全然分かってないです」
いつもの答えを返す。
「大学行くのがいいのか、専門なのか、
そもそも進学するべきなのかも分からなくて」
店長は、「ふうん」とだけ言って、
店内をぐるっと一周見回した。
「俺はさ、高校出てすぐ、この仕事始めたんだよ」
それは前にも聞いた話だ。
でも、今日は少し違うトーンだった。
「“大学行く頭ないから”って、最初は自分で笑い話にしてた。
でも本当のところは、“早く自分で稼ぎたかった”ってのもある」
「早く稼ぎたい、ですか」
「うん。
家もそんなに余裕なかったしな。
バイトじゃなくて“フルタイムで働いてる俺”に、
妙な大人ぶりを感じてた時期もあった」
店長は、自販機横のゴミ箱を整えながら続ける。
「でもさ。
二十代半ばくらいで気づいたんだよな。
“働く”ってのは、
逃げ場にはならないってことに」
「逃げ場……」
「学校嫌だ、勉強嫌だ、家も窮屈だ。
そうやって全部から逃げるために働き始めると、
今度は“仕事から逃げられなくなる”」
言葉の意味を、すぐには飲み込めなかった。
「仕事ってのはさ、
責任も、クレームも、生活も、ぜんぶセットだから。
“イヤになったからやめます”で簡単に放り出せるもんじゃない。
だから俺は、高校生が
“今しんどいから働くほうがマシかも”って考え始めるの、
ちょっと危ないなって思ってる」
店長は、レジ横の募金箱を指でトントン叩いた。
「安藤は、高二からここでバイトしてるだろ。
レジの前で、いろんな大人見てきたはずだ」
確かに、その通りだ。
仕事帰りにヘロヘロなスーツの人。
夜勤前に眠そうな顔でエナジードリンクを買っていく人。
小さい子どもを連れて、慌ててオムツを買いに来る親。
「“働いたら自由になれる”ってわけじゃない。
“自分の生活を、自分で回す責任”が増えるだけだ」
「……店長は、それでも今の仕事、嫌いじゃないんですよね」
前に聞いたことを、改めて確認するように尋ねると、
店長は「そうだな」とうなずいた。
「うん。
俺はこれ、けっこう好きだよ。
向いてると思うしな。
でも、“たまたま合ってただけ”だとも思ってる」
たまたま。
その言葉が、妙に引っかかった。
「安藤は、まだ“たまたま”を試す段階にすらいない。
だからさ。
今このタイミングで、
バイト増やして“働くほうに比重を寄せる”のは、
正直おすすめしない」
「……」
図星を刺された気がして、言葉が詰まる。
家でバイトの話をするとき、
“自分のことは自分で少しは出せるほうが気が楽”だなんて、
もっともらしいことを言った。
でも、どこかで、
「勉強から逃げる理由にもなるかもしれない」
と考えていたのも事実だった。
「……でさ。安藤、自分ではどうしたいんだ?」
少し間を置いてから、店長が聞いてきた。
「シフト、このまま続けたいか?
それとも、受験近いし、ちょっと減らしたいか?」
真正面からそう聞かれて、言葉に詰まる。
「……正直、勉強のこと考えると、
前みたいにガッツリ入るのはキツいかもしれないです。
でも、全部やめちゃうのも怖いというか……」
「なるほどね」
店長はうなずいて、レジ台を軽く指で叩いた。
「シフト決めるのは俺だけど、
“どうしたいか決める”のはお前の仕事だからな。
きついならきついって、自分の口で言え。
それ聞いたうえで、ちゃんと考えるから」
「……じゃあ、今度相談させてください。
テストの予定とか、学校の補習とか、まとめてから」
思わず、そう返していた。
「お、いいじゃん。
じゃあ今日の上がりのとき、
ざっくりでいいからその予定、教えてくれ」
「はい」
返事をすると、
胸の奥で何かが少しだけ整理されていくのを感じた。
そのタイミングで、
自動ドアがまた「ウィン」と音を立てる。
「いらっしゃいませー」
口がまた、いつものように自動で動く。
さっきまでより、
レジの内側と外側の境目が、
少しだけハッキリ見えた気がした。
――ここは“働く場所”。
俺の居場所ではあるけど、逃げ場じゃない。
カードゲームみたいに、
今持っている手札の一枚として「バイト」がある。
でも、今いちばん大事なのは、
この先どんなカードを引けるようにしておくか、だ。
どこで生きていくかを決めるのは、
まだ、これから。