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日曜の昼過ぎ。
机に向かったものの、肝心の勉強はまったく進んでいなかった。
数学の問題集を開いては閉じ、
閉じてはスマホを見て、
そのまま30分が溶ける。
――昨日、塾の体験で山本さんが言ってた言葉。
“負けたあと、もう一回考えるほうが長いんだよ”
あれが、じわじわ効いていた。
やりたいことを追って負けた大人。
やりたいことのないまま選ばされる自分。
どっちがマシなんだろう、と考えてしまう。
そんなときだった。
スマホが軽く震えた。
見覚えのある番号――塾の番号だった。
「……はい、安藤です」
『あ、安藤くん? 昨日の山本です。
体験授業のフォローで一回電話したかったんだけど、大丈夫?』
「あ、はい。大丈夫です」
少しだけ緊張する。
山本さんは、軽い声で続けた。
『昨日さ、いろいろ話したけど……。
ちょっとだけ“俺の続き”の話、してもいい?』
「続き、ですか?」
『うん。昨日は“夢に負けた話”で終わったけど……
そのあとの話、まだ言ってなかったなと思って』
紙の上に置いたシャープペンを、思わず握り直す。
『俺ね、教員試験に落ちたあとの数年間、
本気で“何者でもない自分”に耐えられなかったんだよ』
電話口の山本さんは、いつもより少しだけ低い声だった。
『友達は教師になって、スーツ着て教壇に立って、
“先生”って呼ばれて、
大人に見られて。
俺は、その横で塾講師のバイトのまま。
資格もないし、職歴も胸張れない。
“何も残ってない人間”って気がしてさ』
山本さんがそんなことを思っていたなんて、
昨日の講師室の明るい雰囲気からは想像できなかった。
『でもある日、ふと思ったんだよね。
“何者でもない時間って、
実はむっちゃ長いんだな”って』
「何者でもない、時間……」
『進路決める高校生もそうだし、
社会出てから仕事迷う大人もそうだけど。
“決まってない状態”ってさ、
世の中じゃ“遅れてる”とか“ダメだ”って扱われがちじゃん?』
「……まあ、そうですね」
『でも実際は逆でさ。
“決まってない時間”って、悪いことじゃないんだよ。
むしろ、決めたあとより長い。
決めた“先”の人生のほうが、ずっと長いんだから』
山本さんはそこで一息ついて、少し柔らかい声に戻った。
『安藤くんは、まだ決まってなくていい。
決まってない自分を焦って叩き起こす必要はないよ。
昨日の君のノートの“やりたくないことリスト”、
あれ、めちゃくちゃ大事だからね。
ああいうの書ける子は、ちゃんと選べるよ』
昨日、なんとなく書いたあの落書きみたいなメモが、
勝手に胸の奥で光った。
『それでね、もしよかったらだけどさ。
来週、一回“保護者面談前の個別相談”って形で来ない?
進路、いっしょに整理しよう』
「……俺だけでいいんですか?」
『うん。
本番の三者面談の前に、“自分の足場固め”しとくほうが楽だよ』
電話口の山本さんは、押し付けがましくなかった。
勧誘めいた空気もない。
ただ、
「大人の側から見た“決まらなさ”の価値」
を、ちゃんと話してくれた。
「……分かりました。行きます」
そう言うのに、思ったより迷いはなかった。
『じゃあ、来週の土曜、16時に』
「はい」
電話を切ると、部屋の静けさが戻ってきた。
机の上のメモ帳に、昨日の続きが残っている。
『そもそも進学するべきなのか?』
その下に、シャープペンでゆっくりと書き足す。
『“決まってなくていい時間”を、ちゃんと使う』
書いてみると、
少しだけ呼吸がしやすくなった。
決まってないことを、恥じる必要はない。
決まってないからこそ、動けることもある。
山本さんの言葉は、
昨日の塾とは違う形で胸に刺さっていた。