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#ワンナイトラブ
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その日は、私にとって最も恐れていた、そして最も待ち望んでいた日だった。
消毒液の匂いが漂う、静かな病室。
白いベッドに横たわる祖母の
枝のように細くなってしまった手を握りしめながら、私は隣に立つ京介を盗み見た。
今日の彼は、威圧感を放つスリーピースではなく
柔らかな質感のニットにコートを羽織った、どこか温かみのある装いをしている。
「おばあちゃん、紹介するね。……夫の、京介さん」
「夫」という偽りの肩書きが、喉の奥でチリリと焼けるような痛みを伴う。
罪悪感に押し潰されそうになり、私は思わず視線を落とした。
けれど、京介は迷いのない足取りで一歩前へ出ると、跪くようにして祖母の手を両手で優しく包み込んだ。
「初めまして。いつも志乃には助けられています」
その声は、オフィスでの冷徹なトーンとは正反対の、深みのある温かく穏やかなものだった。
祖母の瞳が微かに潤み、弱々しくも、この上なく幸せそうに口角を上げる。
「……まあ。志乃とお似合いの、いい人ね……。志乃を、どうか、よろしくね……」
京介は何度も深く頷き、祖母が安らかな眠りにつくまで
彼女のとりとめもない昔話を、一言も遮ることなく辛抱強く聞き続けた。
その横顔には、冷徹な経営者の面影など微塵もなく、ただ一人の誠実な男としての表情があった。
病院を後にし、夕暮れ時の駐車場。
オレンジ色の光が世界を染める中、私は隣を歩く彼に、消え入りそうな声で告げた。
「……ありがとうございました。あんなに熱心に話を聞いてくださるなんて。あそこまでしていただくのは、契約以上の負担だったんじゃ……」
すると、京介は不意に立ち止まり、私の肩を掴んで強引に自分の方へ向かせた。
逆光に照らされた彼の瞳は、いつになく真剣で、射抜くような強さを持っていた。
「志乃。……お前、あれを全部演技だと思っているのか?」
「え……?」
「俺は、嘘を吐くときはもっと効率的にやる。目的のためなら手段を選ばないが……あのおばあさんの前で言った言葉に、嘘は一つもない」
京介の指が、私の頬にそっと触れる。
眼鏡の奥の瞳が耐えきれずに潤んでいるのを、彼は決して見逃してはくれなかった。
「お前は、一人で背負いすぎだ。もっと周りに頼れ。…たとえこれが『契約』から始まった歪な関係だとしても、俺が今お前の隣にいるのは、紛れもない事実なんだ」
心臓が、痛いほどに鳴り響く。
これは「シゴデキ」な秘書としての任務ではない。
一人の女性として、彼の剥き出しの優しさに触れてしまった。
偽りのはずの絆が、私の胸の中で、本物の体温を持って激しく脈打ち始めていた。
「……京介様、私……」
溢れそうになった言葉は、彼に優しく引き寄せられた厚い胸の中で、静かに溶けていった。
夕闇が迫る中、彼の鼓動だけが私の世界を支配していた。