翌朝。 ハレルはいつもより早く家を出た。
涼と交わした言葉が、頭の奥に残響のようにこびりついている。
――「この世界が、壊れ始めてる。」
それは比喩ではない。
街の色も、空気の匂いも、昨日とわずかに違って感じられた。
紫がかった雲、揺れる街灯の光。
現実そのものが、ほんの少し軋んでいるようだった。
母はまだ眠っている。
サキが用意したトーストを口に運びながら、テレビをつける。
「――柏木陽介教諭の死亡について、警察は“心不全による自然死”と発表しました。」
箸を止める。
昨日まで「事故と事件の両面で捜査中」と報じていたはずだ。
キャスターの口調も、妙に均一で機械的だ。
「……書き換えられてる。」
小さく呟いた。
リモコンで巻き戻しても、同じ映像が繰り返されるだけ。
だが一瞬だけ、ニュースの背景に“歪んだ光”が走った。
人の顔のような――ノイズ。
胸の奥が冷たくなる。
セラの言葉が蘇った。
――“観測の記録が改竄されれば、現実も歪む。”
学校に着くと、空気はいつも通りのはずなのに重かった。
柏木先生の席には、別の若い臨時教員が立っている。
黒板に書かれた名前は「藤宮」。
「……誰?」
隣の生徒に小声で尋ねる。
「え、藤宮先生? 前からこのクラスの担任だろ?」
ハレルは息を呑む。
――“柏木先生なんて、最初から存在しなかった”ように。
昼休み。
屋上の風はいつもより強く、空は薄紫に濁っていた。
ハレルは制服のポケットからスマホを取り出し、カメラを起動する。
画面越しに映る空間の中に、小さな光の粒――“ノイズ”が漂っていた。
それを見つめていると、背後から声がした。
「やっぱり、ここにいたか。」
驚いて振り返ると、フェンスの影に木崎が立っていた。
茶色のコートの裾を風に揺らし、目だけが真剣だ。
「木崎さん……なんでここに?」
「いつもここに来るって聞いてね。悪いけど、忍び込んだんだ。」
軽く肩をすくめるが、笑っていない。
「学校の連中には内緒だ。記者が屋上にいるなんて知られたら面倒だろ。」
「……で、何の用ですか。」
「確認したいことがある。ニュースを見たろ?」
ハレルは無言でうなずいた。
木崎はポケットから一枚の紙を取り出した。
昨日の新聞の切り抜きだ。
“柏木教諭死亡、捜査開始”――確かにそう印刷されている。
「今朝の版には、この記事が消えてた。」
「……消えた?」
「いや、“なかったことにされた”んだ。編集部のデータごと。」
木崎の瞳が細く光る。
「お前の父も、こういう現象を“観測の改竄”と呼んでた。」
「父が……その言葉を?」
「そうだ。奴は数年前から“現実のノイズ”を調べてた。
だけどある日、突然すべての資料が消えた。まるで……この世界からごっそり抹消されたように。」
風が吹き抜ける。フェンスがきしむ音。
ハレルは空を見上げた。
遠くで、紫の雲がひび割れたように裂けていく。
その奥に、一瞬だけ“イルダの塔”が見えた。
「……世界が、繋がりかけてる。」
小さく呟いたその言葉に、木崎が首を傾げる。
「何て?」
「いえ……何でも。」
スマホを取り出す。
画面の中で、ノイズが再び現れた。
青い光の粒が、人の形に変わっていく。
――セラ。
声はない。
だが唇が確かに動いた。
《観測が重なってる。早く“記録”を閉じて》
光が一瞬強まり、ハレルは目を覆った。
耳の奥で、鐘の音が鳴る。
イルダの鐘。
現実にまで侵食してくる異世界の響き。
光が消えたとき、画面には何も映っていなかった。
けれど胸の奥に、確かな“違和感”が残っていた。
まるで現実の一部が、書き換えられたような感覚。
「……セラ。」
その名を呼んでも、答える声はなかった。
風が吹き抜け、紙片がフェンスの外へ飛んでいく。
そこに書かれた“柏木陽介”という名前が、 陽光の中でかすかに消えていった。
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