「聞き間違いじゃなければ、お前とこうして二人でいるのは、彼女の本意ではないようだが?」
助かった、と思った。
私と勇太の関係を誤解でもされれば、そうは思わなかったけれど、会話から正しい判断をしてくれたようだ。
「どこで誰が見ているかわからないんだぞ。あらぬ噂が立てられないように気をつけろ」
勇太のお兄さんは研究者。何の研究をしているのかは、何年も前に聞いたけれど覚えていない。大学院で有名な教授に目をかけてもらい、研究室を与えられた、はず。今はどうかまではわからないけれど。
勇太の気の弱さと、自己評価の低さは兄へのコンプレックスが理由。
勇太の両親は、教師。かなり厳しく育てられたらしい。私の知る限り、勇太は常に学年トップの成績を収めてきた。けれど、両親は常に自分の上をいく兄と比較し、兄ばかりを褒めた。年が離れていることもあって、兄弟仲が悪くなる代わりに、勇太はお兄さんを怯えるようになった。
「迷惑でなければ、送らせていただけますか?」
勇太のお兄さんが、私に言った。
「俺が送るから――」
「お願いします」
勇太の言葉を遮って、私はお兄さんに頭を下げた。
勇太にとって、この上ない屈辱。
けれど、私にとっては、思いもよらない救いの手だった。
「あきら!」
「勇太は、早く奥さんと子供のところに帰って」
私の断固とした言葉に、勇太は唇を噛み、人差し指と中指を擦り合わせながら、駅に向かって去って行った。
勇太が角を曲がり、姿が見えなくなるまで、私もお兄さんも黙ったままだった。
「勇太がご迷惑をおかけしました」
お兄さんが深々と頭を下げた。
「どこから……聞いていたんですか?」
「割と、最初から。盗み聞きの趣味はないが、弟が不倫をしているかもしれないと思うと、確かめたかった」
ま、誰でもそうするだろう。
「四年前に弟がしたこと、私からも謝ります」
頭を下げたまま、お兄さんは更に腰を折った。
「頭を上げてください。いくら兄弟とはいえ、お兄さんに謝ってもらいたいとは思いません」
お兄さんは素直に頭を上げた。
「あきらさんが弟の馬鹿げた申し出を断ってくれて、良かった」
くすぐったかった。
あきらさん、なんて呼ばれ慣れてない。
「行こう」
お兄さんが私に背を向けながら、言った。
「え?」
「送ります」
そう言って歩き出すお兄さんの後を小走りで追う。
「え? あ、いえ。大丈夫です! 勇太の前ではああ言いましたけど、時間も早いですし――」
「勇太とは、食事をしたんですか?」
「え? してないです。Yカメラのマックでコーヒーを飲んだだけです」
「では、食事に行きませんか」
「――は!?」
「弟の失礼のお詫びに、ご馳走させてください」
はい――!?
十分前は元カレに愛人関係を求められ、今は元カレの兄から食事に誘われている。意味がわからない。
もちろん、断った。
が、この兄弟、しつこさはよく似ていた。
最後には、『私と食事をするのは嫌ですか』とまで言われた。
なんだかおかしくなって、私は誘いに応じることにした。
どうせ、帰っても一人。
龍也はいない。
それに、お兄さんと親しくなっておけば、また勇太から連絡があった時、頼れるかもしれない。
その程度の気持ちでついて行った。
札幌駅から歩いて十分ほどにあるBar。お兄さんは常連らしく、バーテンダーと挨拶を交わすと、奥の個室に通された。
お兄さんは私に何を飲むか聞き、私は梅酒と答えた。
「少し強引でしたね、すみません」
飲み物を注文し、メニューを見ていると、お兄さんが言った。
「あ、辛いのが苦手でなければ、イベリコ豚のペペロンチーノがおススメです」
「じゃあ、それで」
「きのことベーコンのピッツァも美味しいんです。シェアしましょう」
見た目で判断してはいけないとわかっているけれど、意外だった。
他人と食べ物をシェアするとか嫌いそう。
玄関の靴は常にきちんと揃えてあって、クローゼットには皺ひとつないワイシャツがずらりと並んでいそう。
お酒は日本酒かウイスキーなんかを飲んでいそうなのに、私と同じ梅酒を注文したし、ピッツァをシェアしようと言う。
そもそも、弟の元カノ相手を食事に誘うこと自体、不思議。
不倫を疑われても仕方がない状況だったのに。
「聞いてもいいですか」
「はい?」
「今日、勇太と会ったのは、偶然ですか?」
「いえ。勇太から会って話がしたいと連絡があったので……」
「これまでも、連絡を?」
探りを入れられているとわかる。
この場合、お兄さんの立場的にも当然だろう。
「お兄さんが――」
「失礼。名前で呼んでいただけますか?」
「え? あ、はい」
呼び方なんてどうでもいいんじゃないかと思うが、どうでもいいなら言われた通りにしもいいかと、気を取り直した。
「戸松さんが仰りたいことはわかります。勇太とは四年前に別れてから一度も連絡を取ってはいませんでした。連絡先も消していました。それが、先々週、偶然、勇太の勤める学校で再会し、名刺を求められたので渡しました。それから、メッセージが届くようになり、ハッキリ言ってしつこかったので、一度顔を合わせて話を聞き、きっぱりと連絡を断った方がいいと思ったので、知り合いに見られても誤解がないような場所を選んで会いました。二人きりになるような隙があったのは認めますが――」
「ストップ!」
業務報告のような説明に熱が入り、バーテンダーが飲み物を持って来ていることに気が付かなかった。
戸松さんはパスタとピッツァ、ナッツの盛り合わせを注文した。
「もう、十分です」と言うと、戸松さんは私のグラスに自分のグラスを重ねた。
「まずは飲みましょう」
どうも、調子が狂う。
勇太との関係を探りたくて誘ったんじゃないのだろうか?
私は一口飲んで、目をパチクリさせた。
「美味しい」
「気に入ってもらえて良かった。この店の梅酒は、梅を漬けるところからこだわっていて、俺も好きなんだ」
戸松さんが気の抜けた笑顔で言った。
……ん?
表情も口調も、それまでとは違う。
シャツのボタンを二つ外し、ふうっと息を吐く。
「あなたと勇太のことは、念のために聞いただけです。さっきの会話からして、勇太に酷く傷つけられたあなたが、勇太に迫られて迷惑しているのは見て取れたから。気づかずに愛人関係を強要するなんて、弟ながら情けないと言うか、恥ずかしいよ」
「そう思っていただけて、良かったです」
癖になりそうだった。
私は梅酒が好きで、どこに行っても飲むけれど、こんなに飲みやすくて後味がすっきりしているのは初めてだ。それでいて、程よいアルコールのきつさもある。気持ち良く酔えそうだ。
「あきらさん」
「はい」
「もし、特別な男性がいないのであれば、俺と付き合ってくれませんか?」
「――はい?」
予想していなかった展開に、頭のてっぺんから抜けるような甲高い声が出た。
「いきなり恋人に、とは言いません。まずは親しい友人になれるよう、仕事の後に食事をしたり、休日に――」
「――ちょ、ちょっと待ってください!」
出会って三十分。
どうして交際を申し込まれるような状況になっているのか、わからない。
しかも、さっきの勇太との会話を聞いていたのなら、私の身体が普通の女性とは違うこともわかったはずだ。
だから……?
「戸松さん」
「はい」
「確認なんですけど、戸松さんは私と友人関係を経て恋人になりたいと思っているんですか?」
「はい」
「でも、戸松さんは私を好きなわけじゃないですよね」
「好感は持っています」
戸松さんが、ニッコリと微笑んだ。お酒のせいか、ほんのり頬が色づいているように見える。まだ、一口か二口しか飲んでいないから、気のせいか。
「なので、恋人関係を前提に、友人として付き合えればと思っています」
「一般論ですが、戸松さんと私の年齢を考えると、恋人となれば結婚を視野に入れますよね?」
「そうですね」
表情や口調、ハッキリと結婚を意識した恋人関係を持ちたいと言うあたり、どうやら勇太との会話の全ては聞こえていなかったらしい。
ならば、私もハッキリと伝えるべきだ。
「あの、戸松さん――」
「俺、無精子症なんです」
先にカミングアウトされ、私は言葉を失った。
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