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#一次創作
#薔薇
げすと
90
第3話『書けない夜のブレンド』
午後三時を少し過ぎた頃。
昼の賑わいを終えた猫又亭には、穏やかな静けさが流れていた。
昼食を食べに来ていた客たちも、いつの間にかそれぞれの場所へ帰っている。
さっきまで聞こえていた笑い声も、食器の触れ合う音も、今はもうない。
店内に残っているのは、時計の針が進む音と、窓の外から聞こえてくる風の音だけだった。
カウンターでは、たまがコーヒーカップを磨いている。
柔らかな布で、白いカップの縁を丁寧に拭く。
一つ。
また一つ。
磨き終えたカップを棚へ戻す。
棚には色とりどりのティーカップが並んでいる。
春の花が描かれたもの。
月と星が描かれたもの。
少し欠けているけれど、捨てずに使い続けている古いカップ。
それぞれに、誰かとの思い出がある。
窓辺では、看板猫のクロが春の日差しを浴びながら丸くなっていた。
「……眠そうだねぇ。」
たまが声をかける。
「眠い。」
目を閉じたまま、クロが答える。
「寝てたでしょう?」
「寝てた。」
「じゃあ、どうして眠いの?」
「寝るのと眠いのは別。」
「そういうものかねぇ。」
「そういうもの。」
クロは尻尾を一度だけ揺らした。
たまは小さく笑う。
外では風が若葉を揺らしている。
まだ夏には遠い。
けれど、冬の冷たさはもうどこにもなかった。
風鈴が軒先で小さく鳴る。
ちりん――。
その音と重なるように。
扉がゆっくり開いた。
からん。
「いらっしゃいませ。」
たまは顔を上げる。
そして。
ほんの少しだけ目を細めた。
立っていたのは、二十代後半くらいの青年だった。
少し伸びた黒髪。
無精ひげ。
寝不足なのだろう。
目の下には濃い隈ができている。
服装もどこか乱れていた。
シャツの襟は少し曲がり、コートの袖には小さな皺がいくつもついている。
左手には使い込まれたノートパソコン。
右腕には、何百枚もある原稿用紙の束。
けれど。
その束は何度も書き直された跡があり、端は折れ、紙は少しよれていた。
何枚かには赤い線が引かれている。
消しゴムで消した跡もある。
中には、途中まで書いたまま丸められている紙まで挟まっていた。
青年は店内を見回す。
けれど。
席を探しているというより。
誰にも見つからない場所を探しているようだった。
「……空いてますか。」
声もどこか疲れている。
「もちろんですよ。」
「……よかった。」
青年は小さく息を吐いた。
そして、店の奥。
窓から少し離れた席へ向かう。
椅子を引く。
荷物を置く。
深く腰を下ろした。
それだけなのに。
まるで、何日も歩き続けていた人がようやく座れたような顔をしていた。
*
青年はメニューを開いた。
けれど。
文字を眺めるだけで、なかなか決められない。
目はメニューの上を動いている。
しかし、頭には何も入っていない。
たまは少し離れた場所から、その様子を見ていた。
「おすすめはありますか。」
やがて青年が尋ねる。
「今日は『夜明け前ブレンド』がありますよ。」
「夜明け前?」
「ええ。」
たまは微笑んだ。
「長い夜を過ごした人のためのコーヒーです。」
青年は少しだけ笑った。
「……僕にぴったりですね。」
「そうかもしれませんねぇ。」
「じゃあ、それで。」
「かしこまりました。」
青年はメニューを閉じた。
その瞬間。
肩から力が抜けたように見えた。
注文を決める。
たったそれだけのことなのに。
それすら、今の彼には少し疲れることだった。
*
たまは厨房へ戻った。
コーヒー豆を取り出す。
少し深めに焙煎された豆。
それをミルへ入れる。
ごり。
ごり。
ごり。
ゆっくりとハンドルを回す。
店内へ、香ばしい香りが広がっていく。
青年は目を閉じた。
ごり。
ごり。
ごり。
何かを考えなくてもいい音。
何かを決めなくてもいい音。
ただ、一定のリズムで続いていく音。
たまはお湯を沸かす。
温度を確かめる。
そして。
細く。
ゆっくりと。
豆へお湯を注いだ。
ぽたり。
ぽたり。
ふわりと、コーヒーの香りが立ち上がる。
最後に。
ほんの少しだけ、乾燥させたカモミールを加える。
苦味の奥に、柔らかな香りが残るように。
「……。」
青年が目を開ける。
その香りが鼻先をくすぐった。
ほんの少し。
それだけだった。
けれど。
さっきまで張り詰めていたものが、少しだけ緩んだ。
*
「お待たせしました。」
たまがカップを置く。
「夜明け前ブレンドです。」
「ありがとうございます。」
青年は両手でカップを包んだ。
少し冷えた指先へ、温もりが伝わる。
しばらく飲まずに、ただカップを持っていた。
その温かさを確かめるように。
やがて。
一口。
青年は目を閉じる。
「……ああ。」
自然と息がこぼれた。
「どうですか?」
「久しぶりに。」
青年はカップを見つめる。
「ちゃんとコーヒーを飲んだ気がします。」
「それはよかった。」
たまはそれ以上聞かなかった。
青年も、何も言わなかった。
静かな時間が流れる。
けれど。
不思議と気まずくはなかった。
猫又亭では。
話さなくてもいい時間がある。
誰かが黙っていることを、誰も急かさない。
*
青年はしばらくコーヒーを飲んでいた。
そして。
ふと。
隣に置いた原稿用紙へ目を向ける。
その瞬間。
表情が変わった。
さっきまで少し緩んでいた顔が。
また硬くなる。
青年は原稿用紙を一枚取り出した。
机へ置く。
ペンを持つ。
ノートパソコンを開く。
画面には、小説の原稿らしき文章が表示されていた。
けれど。
しばらくして。
青年はキーボードから手を離した。
「……。」
またペンを持つ。
一文字。
書く。
止まる。
その文字を見つめる。
そして。
ぐしゃ。
紙を丸めた。
クロが目を開ける。
「……。」
丸められた紙が、足元へ転がっていく。
青年は新しい紙を出す。
また書く。
また止まる。
そして。
また丸める。
それを三度繰り返したところで。
「……書けない。」
小さな声が漏れた。
たまは何も言わなかった。
*
「お仕事帰りですか?」
少し時間を置いてから、たまが尋ねる。
青年は苦笑した。
「仕事……。」
その言葉を聞いた瞬間。
何かを思い出したように顔を伏せる。
「そうですね。」
「仕事、なんでしょうけど。」
少し沈黙が流れる。
「小説を書いています。」
「そうでしたか。」
「一応、作家です。」
「一応?」
「今は……。」
青年は苦笑した。
「作家って名乗っていいのか、分からなくなってます。」
たまはカウンターから出て、青年のテーブルの近くへ立った。
「どうして?」
青年は原稿用紙を見る。
「もう一年近く。」
「一文字も進まないんです。」
「一年……。」
「はい。」
青年は乾いた笑いをこぼした。
「最初の頃は、すぐ書けると思ってました。」
「少し休めば戻る。」
「気分転換すれば戻る。」
「旅行でもすれば戻る。」
「そう思って。」
「でも、戻らなかった。」
指先が原稿用紙の端をなぞる。
「締切だけが増えて。」
「編集者には『待ってます』と言われて。」
「ファンには『新刊まだですか』と言われて。」
「家賃も払わなきゃいけない。」
「だから書こうとする。」
「毎朝、机に座る。」
「パソコンを開く。」
「原稿を見る。」
「それで……。」
青年は唇を噛んだ。
「何も出てこない。」
たまは黙って聞いている。
「昔は違ったんです。」
「主人公が勝手に喋って。」
「登場人物が勝手に動いて。」
「自分でも予想してなかったところへ物語が進んで。」
「書くのが楽しかった。」
青年は少し笑った。
「寝る時間も忘れて書いてました。」
「でも。」
笑顔が消える。
「今は。」
「一行書くのが怖い。」
「……。」
「主人公が笑っても。」
「泣いても。」
「何かを決めても。」
「全部、自分が無理やり動かしてる気がする。」
拳を握る。
「読者がどう思うか。」
「編集者がどう思うか。」
「売れるか。」
「売れないか。」
「前の作品より面白いか。」
「そんなことばっかり考えて。」
青年は俯いた。
「気づいたら。」
「自分が何を書きたかったのか。」
「分からなくなりました。」
*
たまは青年の前に立ったまま。
しばらく何も言わなかった。
励ますことも。
「大丈夫」と簡単に言うことも。
しなかった。
そして。
カウンターへ戻る。
ポットを手に取る。
「おかわり、いかがですか?」
「……え?」
「少し冷めてきたでしょう。」
「あ……。」
青年はカップを見る。
確かに。
いつの間にかコーヒーは少し冷めていた。
「お願いします。」
「はい。」
たまは静かに注ぎ足した。
湯気が立つ。
再び香りが広がる。
「逃げてきました。」
青年が言った。
たまは手を止めない。
「東京から。」
「全部置いて。」
「パソコンも。」
「仕事も。」
「編集者への連絡も。」
「……全部。」
「そうでしたか。」
「逃げるしかなかったんです。」
青年は苦笑した。
「このままじゃ、自分まで嫌いになりそうだったから。」
たまはカップを置く。
「逃げることは、悪いことじゃありませんよ。」
青年が顔を上げる。
「……。」
「疲れた心は。」
たまは穏やかに言う。
「まず休まないと、前へ歩けませんから。」
「でも。」
「逃げたって、何も解決してないです。」
「そうでしょうねぇ。」
「締切も消えない。」
「はい。」
「仕事も待ってる。」
「そうですね。」
「東京に戻ったら、また書かなきゃいけない。」
「そうかもしれません。」
「だったら……。」
青年の声が少し震える。
「休んでも意味ないじゃないですか。」
たまは首を横に振った。
「意味はありますよ。」
「……どんな?」
「疲れている時に休むのは。」
「何かを諦めることじゃありません。」
「もう一度歩くために。」
「足を止めることです。」
青年は黙った。
*
しばらくして。
たまは一枚の紙ナプキンをテーブルへ置いた。
そして。
小さな鉛筆を一本。
「ここでは。」
たまが言う。
「締切もありません。」
「評価もありません。」
「書き直しもしなくていい。」
青年は紙ナプキンを見る。
「だから。」
「一行だけ。」
「……一行?」
「ええ。」
「今、心に浮かんだことを書いてみませんか。」
青年は苦笑した。
「一行も出なかったら?」
「それでもいいですよ。」
「……。」
「白紙だって、大切な一ページですから。」
青年は紙ナプキンを見つめる。
白い。
何もない。
原稿用紙とは違う。
罫線もない。
ページ番号もない。
出版社のロゴもない。
誰かに提出する必要もない。
ただの紙。
それだけだった。
「……何を書けばいいんですか。」
「何でも。」
「例えば?」
「今日見たもの。」
「思ったこと。」
「聞こえた音。」
「飲んだもの。」
「……。」
「今、書きたいことが何もないなら。」
たまは少し笑った。
「『何も書きたくない』でもいいですよ。」
青年は思わず笑った。
「それ、小説になるんですか?」
「さあ。」
「ならないですよね。」
「分からないでしょう?」
「……まあ。」
「物語になるかどうかは。」
「書いた後に決めればいいんですよ。」
*
青年は鉛筆を持った。
けれど。
動かない。
時計の針が進む。
かち。
かち。
かち。
クロが欠伸をする。
外を自転車が通り過ぎる。
遠くで子どもの笑い声がする。
風鈴が鳴る。
ちりん。
青年は紙を見る。
何もない。
鉛筆を持った手だけが。
少し震えている。
「……。」
書けない。
また。
書けない。
青年は鉛筆を置こうとした。
けれど。
たまは何も言わなかった。
急かさない。
見守るだけ。
だから。
青年はもう一度、鉛筆を持った。
紙の上へ先端を置く。
そして。
ゆっくりと。
一文字。
書いた。
続けて。
二文字。
三文字。
そして。
手が止まった。
青年は、自分が書いた言葉を見る。
今日は、少しだけ、コーヒーが温かかった。
それだけだった。
小説でもない。
物語でもない。
主人公もいない。
事件も起こらない。
何の意味もない。
そんな一文。
青年はしばらく見つめていた。
「……。」
そして。
小さく笑った。
「……なんだ、これ。」
「何でしょうねぇ。」
たまも笑う。
「ただの感想です。」
「そうですね。」
「でも。」
青年は紙を見た。
「……自分の言葉だ。」
その声は。
さっきまでとは少し違っていた。
*
鉛筆が、もう一度動いた。
東京を出てきた。
その下に。
逃げた。
さらに。
でも、ここまで来てよかった。
青年はそこで止まった。
少し考える。
そして。
コーヒーが温かい。
と書いた。
「……。」
クロが紙を覗き込む。
「コーヒーばっかり。」
青年が初めて声を出して笑った。
「うるさいな。」
「作家なのに?」
「今は作家じゃない。」
「じゃあ何?」
「……。」
青年は考える。
「分からない。」
「じゃあ、コーヒー飲む人。」
「それなら今の僕でもできる。」
たまが笑う。
「それはよかった。」
青年も笑った。
そして。
また紙へ目を戻した。
*
そこからは。
止まらなかった。
一行。
また一行。
思いついたことを書いた。
消さなかった。
直さなかった。
順番も気にしなかった。
文章になっていない言葉も書いた。
愚痴も書いた。
昔好きだったことも書いた。
最近嫌になったことも書いた。
東京の街のこと。
編集者から届いたメール。
眠れなかった夜。
コンビニで買った冷たいおにぎり。
机の上に積み重なった原稿。
書けない自分への苛立ち。
そして。
昔、自分が初めて小説を書いた日のこと。
誰にも読ませるつもりがなかった頃。
ただ。
「こんな話があったら面白いな。」
そう思って。
ノートへ書いた。
あの頃のこと。
気づけば。
紙ナプキンは何枚も増えていた。
*
窓の外が少しずつ赤く染まっていく。
気づけば夕方だった。
「……こんなに時間が経ってたんだ。」
青年が呟く。
「そうだねぇ。」
たまは窓の外を見る。
「もう夕方ですよ。」
青年は書いた紙を見下ろす。
何枚もある。
けれど。
そこには小説はなかった。
完成した文章もない。
誰かに見せられるものでもない。
それでも。
青年は満足そうだった。
「……久しぶりでした。」
「何が?」
「書くことが。」
青年は一枚の紙を手に取る。
「苦しくなかった。」
たまは微笑んだ。
「それなら、今日は十分ですよ。」
「……はい。」
青年は紙を丁寧に折りたたむ。
捨てるつもりはなかった。
胸ポケットへしまう。
「持って帰るんですか?」
たまが尋ねる。
「はい。」
「誰かに見せる?」
「……分かりません。」
「それでいいですよ。」
*
青年はノートパソコンを閉じる。
原稿用紙の束も鞄へ戻す。
けれど。
来た時とは違って。
その動作は少しだけ軽かった。
店を出る前。
青年は入口で立ち止まる。
「……あの。」
「はい?」
「また来ても、いいですか。」
たまは笑った。
「もちろん。」
「今度は。」
青年は少し照れながら。
「ちゃんと、仕事を置いてきます。」
「それがいいねぇ。」
「……今日みたいに、逃げてきても?」
たまは少し考える。
そして。
「逃げる場所が必要な日もありますよ。」
「……。」
「ただ。」
「はい。」
「いつか、逃げるだけじゃなく。」
「また歩き出せるといいですねぇ。」
青年は黙っていた。
やがて。
「……はい。」
小さく頷いた。
*
扉を開ける。
からん。
春の風が吹き込んでくる。
青年は外へ出た。
そして。
一度だけ振り返る。
猫又亭の灯り。
窓から見えるたま。
カウンターにいるクロ。
いつもと変わらない店。
青年は小さく頭を下げた。
「ありがとうございました。」
「こちらこそ。」
そして。
「また。」
青年が言う。
たまは笑った。
「ええ。」
青年は夕焼け色に染まる路地を歩いていった。
*
その夜。
閉店後の猫又亭。
クロがカウンターの上で丸くなっている。
たまは一人、カップを片付けていた。
「たま。」
「ん?」
「あの人。」
「うん。」
「小説、書けたの?」
たまは少し笑う。
「書いてないよ。」
「じゃあ失敗?」
「どうして?」
「だって小説を書くために来たんでしょう?」
「そうだねぇ。」
「でも小説は書いてない。」
「うん。」
たまは最後のカップを棚へ戻した。
「それでも。」
「何?」
「今日はちゃんと、一歩進んだと思うよ。」
「どこが?」
たまは窓の外を見る。
すっかり暗くなった路地裏。
その先に、青年の姿はもうない。
「書けない自分を。」
「もう一度、嫌いにならずに済んだから。」
「……。」
クロは少し考える。
「それって大事?」
「とても。」
*
たまはカウンターの引き出しを開けた。
そこには。
一枚の紙ナプキンが置かれていた。
今日、青年が最初に書いた一文。
今日は、少しだけ、コーヒーが温かかった。
たまはそれを大切そうに見つめる。
「言葉ってね。」
誰に言うでもなく呟く。
「書こうとして生まれるものじゃないんだよ。」
クロが顔を上げる。
「じゃあ、どうやって生まれるの?」
たまは紙をそっとしまう。
「心が、少しだけ余裕を取り戻した時に。」
「ぽつりと出てくるものなんだよ。」
「……。」
「だから。」
たまは微笑んだ。
「今日は、ちゃんと芽が出たんじゃないかな。」
窓の外から春の風が吹く。
風鈴が鳴る。
ちりん――。
*
翌朝。
猫又亭に朝の光が差し込んでいた。
たまが店の扉を開ける。
からん。
「今日も始めようかねぇ。」
クロが看板の横で大きく伸びをする。
「たま。」
「なに?」
「今日も紙、置いとく?」
「うん。」
「また誰か書くかな。」
「さあ。」
たまはカウンターへ紙ナプキンを数枚置く。
「でも。」
「うん?」
「書かなくてもいいんだよ。」
「え?」
「ここは、書くための場所じゃないから。」
たまは窓の外を見る。
「休むための場所だから。」
クロは尻尾を揺らす。
「じゃあ、僕も休む。」
「いつも休んでるでしょう。」
「看板猫は忙しい。」
「どこが?」
「寝るのに忙しい。」
「ふふ。」
たまが笑う。
そして。
コーヒー豆を取り出した。
ごり。
ごり。
ごり。
いつもの音が、静かな店内へ響き始める。
*
数日後。
青年の姿は、まだ猫又亭にはなかった。
けれど。
ある日の朝。
郵便受けに一通の手紙が入っていた。
差出人の名前を見て。
たまは少し笑った。
封筒には。
小さな文字で。
この前は、ありがとうございました。
と書かれていた。
中には一枚の紙。
そこには。
あの日の紙ナプキンに書いた文章と。
その下に。
一行だけ、新しい言葉が書かれていた。
今日から、もう一度書いてみます。
たまはその紙を読み終える。
そして。
窓の外を見る。
春の風が吹いている。
桜の枝が揺れている。
「……焦らなくて大丈夫。」
たまが小さく呟く。
「風は、ちゃんと吹くからねぇ。」
クロが隣から覗き込む。
「また書けるかな。」
「きっと。」
「どうして?」
たまは微笑んだ。
「もう一度、書いてみようと思えたから。」
*
猫又亭の引き出しには。
今日も一枚の紙ナプキンが大切にしまわれている。
そこに書かれた文章は。
誰かに評価されることもない。
本になることもないかもしれない。
賞を取ることもない。
誰かの心を動かす名作になることもない。
けれど。
それは。
長い間、止まっていた一人の人間が。
もう一度、自分の言葉を見つけた証だった。
だから。
たまは捨てない。
今日も。
明日も。
この店に誰かが訪れる限り。
書けない人が来ても。
迷っている人が来ても。
何もしたくない人が来ても。
猫又亭は。
何も急かさない。
ただ。
一杯のコーヒーを淹れる。
少しだけ話を聞く。
時には。
何も話さない。
そして。
その人が自分の足で帰っていくまで。
そっと灯りをつけておく。
ちりん――。
風鈴が優しく鳴る。
春の風が店内を通り抜ける。
今日も。
猫又亭には誰かの「続きを書く勇気」が。
静かに生まれていた。
――物語は、書けない日がある。
立ち止まる日がある。
何も生まれない日がある。
それでも。
白紙のページは、終わりじゃない。
いつかまた。
そこに一文字目を書ける日が来る。
その日まで。
少し休んでいけばいい。
「ゆっくりしていっておくれ。」
たまの穏やかな声が。
春の猫又亭に響いた。
そして今日も。
路地裏の小さな店では。
誰かの物語が。
まだ、続きを待っていた。
コメント
3件
うわあ……めっちゃ沁みた……。 「書けない」って苦しみが、こんなに丁寧に描かれてるの初めて読んだ気がする。 一行書くのが怖い、って気持ち、めっちゃ分かる気がするよ。自分で自分の作品を嫌いになりそうになるの、しんどいよね……。 たまさんの「白紙だって大切な一ページ」って言葉、めっちゃ刺さった。 あと「今日は、少しだけ、コーヒーが温かかった」っていう一行が、ちゃんと“自分の言葉”になる瞬間、すごく良かった……。 猫又亭、俺も行きたい。 黒音さん、こんなに優しい話をありがとう。続き読みたいけど、この雰囲気のまま終わるのもすごく好きだな……。