舞台では、古びたピアノを男子学生が真剣に演奏している。
コロコロと坂道を転がるような、愉快で爽快な音楽に、客席からはわっという歓声と手拍子が起こった。
「よっ!西田!」
「この男前っ!」
掛け声に、どっと笑い声が巻き起こる。
瞬間、うーんと、梅子が顔をしかめた。
「田口屋さんったら、せっかくの演奏なのに……」
茶々を入れすぎだと梅子は言いたいらしい。
何の事かと、月子が、呆れる梅子の視線をたどってみると、一階の隅で二代目が、声を掛けていた。
「これじゃあ、まるで、歌舞伎ですよぉー」
「ふふふ、梅子さん、大向《おおむこ》うね」
月子の母が、嬉しそうに言った。
梅子は、そうだそうだと、歌舞伎の芝居中に常連客がひいきの役者に声をかける仕草、大向うじゃないかと、二代目のことを揶揄し始める。
それを見て、月子の母は、また笑った。
月子は、母が本当に楽しそうにしている事に驚きつつも、何かほんわか心が暖かくなった。
幸せ……、とは、こういうことなのか。
岩崎といる時も、恥ずかしながらも、嬉しくなる。
そして、幸せという言葉が重い浮かんでくるのだが、今の母の姿を見てのそれは、岩崎の時と少し異なっている。
辛い暮らしがあった事を忘れさせてくれる母の笑顔は、月子にとって、胸に迫るものがあった。
気がつけば、涙がにじんでいた。
「えーと、もぅつあると、とるこ行進曲だそうですよ?行進するときの曲なんですかねぇ?異国では、こんな軽やかな曲でどうやって行進するんでしょう?ピアノ学科の西田浩太郎さんの演奏だそうですねぇ……」
梅子が、紙切れを見ながら呟いている。
月子は、涙を浮かべていることが梅子には、ばれなかったかとホッとしながら、そっと横を向くと、目元にハンカチを当てた。
と、同時になぜ梅子が、曲のことを知っているのか気になった。
まるで、岩崎のように詳しい。事前に岩崎に教えられていたのだろうか?不思議に思い、つい、尋ねてみる。
「あっ、これですか?演目表ですよ!私達は、男爵家の者ですから頂けましたけどね、田口屋さんたらっ、一枚一銭で売っているようで、升席を回ってたんですよ!それも!月子様!一枚三銭のところを、特別に一銭だっ!なんて、叩き売り状態っ!!」
梅子は、あきれながら、安っぽい紙に手書きされた演目表を差し出してきた。
演奏曲と演奏者の名前が記されている。
「でも、これが、あるとよくわかりますよね」
「ですけどー、月子様?何も煽るような商売しなくても!こんな紙切れ、皆に配れば良いのにー!田口屋さんもしっかりしてるわ」
梅子の愚痴も分からなくはないが、いかにも二代目らしいと、月子は込み上げてきた笑いを堪えた。
客席では、観客の手拍子と、様々な掛け声が止まらない。
実際、演奏は、素晴らしいもので、曲調も、早い流れの明るく弾ける感じのものだった。
ここで、笑っては、皆に誤解されると、月子は場違いにならない様、必死に笑いを押さえ込む。
「あら、月子!お咲ちゃんも、たいしたものよ!」
すっかり、舞台に魅了されていた母が、お咲を見てみろと月子へ言った。
言われて、お咲きを見ると……。
「ちゃららん、ちゃららーちゃらららーらー」
沸き起こっている手拍子に合わせてか、ピアノ演奏に合わせてか、お咲はいつものように曲を口ずさみながら、手拍子付きで踊っていた。
お咲も、場の雰囲気に飲まれたのだろう。
「あー!お咲!そんなにドタバタしない!ここ、古いんだから、底が抜けちゃうよっ!落っこちるよっ!それより、じっとしてないと、自分の番が来た時、疲れちゃうでしょ!」
梅子の厳しい一言に、
「は、はい!!」
お咲も、はっとして、動きを止めた。
それでも演奏が気になるようで、桟敷席の縁にしがみつき、舞台を眺めている。
「ああ、落ちないようにしなよっ!乗り出しちゃだめだよ!しっかり、掴まって!」
これでもかの梅子の注意に、お咲は、素直に返事をし、お咲なりに我慢しているのか、控えめにピアノに合わせて口ずさんで、大人しくなった。
やはり、自分の番が来るという言葉が堪えたのか、お咲なりに先のことを考えているようだった。
ピアノの演奏は無事終わり、学生は立ち上がると、深々とお辞儀をして、下がって行った。
「えーー、ピアノ学科、西田浩太郎君の発表でした。続きましてぇ……」
花園劇場の支配人が、トコトコと舞台中央へ歩む出て、演者の紹介をする。
そして、次の発表者が出てくる。
女学生による、声楽、歌曲のようだった。
女子の登場に、会場は、大きくどよめいた。続いて、やんややんやと、訳のわからぬ掛け声がかかる。
当然、演者本人は、この異常な盛り上がりに目を白黒させるが、ななんとか体制をとると唄い始める。
流れる高音に、おおおーーと、地を這う様な驚きの声が上がり、皆、身を乗り出して聞き入った。
当然、合間合間に、しゅーべると!べっぴんさんっ!などなど、掛け声は忘れていない。
そんなこんなで、下町風情丸出しの演奏会は、滞りなく進んで行く。
多少ずれた雰囲気ではあるが、観客が心から楽しんでいるのは、学生達にも理解できたようで、とまどいながらも、演奏が終わり行う礼では、朗らかな笑顔を浮かべていた。
「月子、すごいねぇ、学生さんだというのに、本当に、すごいねぇ!」
「ほんと!母さん!凄いよね!」
桟敷席では、月子親子が、興奮しきっていた。
母と二人揃って、催しを観るということなどなかった。蔵に押し込められた生活だったのだ。それだけに、月子は、母と外の世界に居られるということが、まさに夢のようで嬉しくて仕方ない。
そこへ、上質な音楽とくれば、凄い、凄いを連発してしまうのも当然のことだろう。
「喜んで頂けて光栄です」
喜びきっている親子の背後から声がした。
月子親子が振り向くと、岩崎が少し照れくさそうに立っていた。