ある日の朝、まだ人がいない台所で、炊事の準備をしようと鍋を洗っていると、廊下のあたりから、何やら焦ったように、話し合う声が聞こえてきた。
この時間はいつも静かで、起きている弟子も少ないというのに、今日はどうしたことだろう。
「早百合!すぐ来てくれ!」
「早百合ちゃん、ちょっとこっち!」
飛鳥馬先生のベテラン弟子で、講師もしている2人が、突然、血相を変えて駆け込んできた。
「あ、あのなぁ…」
「し、師匠が…」
「へ?どうしたんですか?」
皆、震えて声が出ないらしい。しかしその訳は、すぐにわかった。
廊下の奥にできた血の海で、仰向けに倒れた師匠の身体に凄惨に刻み込まれた傷を見た私はひどく驚愕した。
肩のてっぺんから脚の先まで、斜めにつけられた傷は、両手の可動域とは到底思えないほどの長さ。
そしてその傷の深さからうかがえる剛力。
私は一瞬、目を閉じた。
今でもはっきりと思い出せる。淀みをたたえた目、疾風のような太刀筋…
「早百合。これって…間違いないか?」
最もベテランの弟子が、確かめるように私に尋ねる。もうひとりも、横目でちらりちらりと、私の顔色を伺ってきた。二人の目はまるで、私の答えを促すように…。
私は口を開かなかった。しかし私にはわかっていた。
ベテランの二人も、ひょっとすると、わざわざ私に聞かずとも、既にわかっていたのかもしれない。
師匠の身体になんの躊躇もなく、これほどの傷をつけることができるのは、この道場に、一人しかいない。
このまま放っておけば、人間国宝候補とも言われた飛鳥馬師匠の死は、世間を大きく騒がせることになる。マスメディアや警察に連日押し入られては、弟子全員が罪に問われかねない。
真面目に修行に打ち込んできた罪のない弟子を守るためにも、大人たちは、やむなく飛鳥馬先生の死を不慮の事故とし、葬儀を早々に執り行うことに決めた。
圭一は素知らぬ顔で、多くの弟子とともに参列している。遺影の前で形だけ手を合わせると、隠しきれない薄ら笑いを浮かべて、灰の上にはらはらと焼香を落とした。
憎しみとともに、深い悲しみと震えが走る。
葬儀の間中、私は目に涙を溜めながら、ずっと圭一の背中を睨みつけていた。
大好きだった兄は、知らぬ間に、手のつけられなくなるほど歪んでいた。
何が兄をそうさせたのか。
母の死、母を死に追いやった村の人々…
それから…
変わり果てた母の姿を目の当たりにした圭一は、きっと、他の誰よりも、何百倍、何千倍と辛かったに違いない。
それでも、幼い私が苦しまないように、あの日の朝、母が死んだとはっきり伝えなかったのは、圭一が私に残した、兄としての、最後の優しさだったのだろうか…。
それと引き換えに、兄が壊れていったのならば…
生まれてはじめて、兄を憎んだ。
人の心がわからなくなった兄を憎んだ。
兄をここまでぶち壊した母の死を憎んだ。
母を死に追いやった村の人達を憎んだ。
そして、他の誰よりも、何よりも、
兄を守りきれず、愛しきれなかった自分を、心の底から深く、深く憎んだ。
コメント
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こうして兄と別れ、第三の家も離れることになり、決して褒められるとは言えませんが、私なりの門出の日を迎えました。これから裏社会での新生活が始まります。現在、商売を行う場所を巡って、街の有力な極道二組と、交渉しております。準備に時間がかかってしまいそうですが、あしからず…^^;
だんだん雲行きが怪しくなって来ている……ここからどうやって兄さんを止めるのでしょう?確かに兄さんが歪んでしまったことは過去を思えば容易に分かる、でもその歪みをどう変えるのか、ここからどうなるのか、早百合さん、頑張ってください。