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看守が、面倒くさそうに現れた。
「なんでぇ、飯を運んで来る時は、もたもた遅いのに、引き揚げは、早いときたもんだ」
黄良の悪態など、まともに取り合わず、看守は、夢龍の手枷《てかせ》を、再び装着している。
「そんなもん、素直に従う必要ねぇだろうに?」
黄良が、言うが早いか、看守の頭を、椀で殴り付けた。木製のそれは、見事に真っ二つに割れ、看守は、うーんと、唸り、倒れこむ。
「夢龍、こいつに、着けてやんなよ」
と、笑いながら黄良は言った。
「さっ、あんたは、どうする?」
続けて、男へ声をかけると、倒れた看守の鍵束を奪って、牢の外へ出た。
男も腰をあげ、黄良へ続く。そして、夢龍へ言った。
「暗行御史《アメンオサ》の証は、いかがなされました?!」
「ちょっと待て!」
男の言葉に、黄良が、言い含む。
「夢龍、お前……」
夢龍は、黄良をじろりと見て、
「立ち話をしている場合なのか?!」
と、はぐらかした。
事実、もたもたしている場合ではない。牢から逃げ出しているのだから。
黄良は、連れてこられて来た時の道順を覚えている。さらに、童子も、差し入れに来た時、道標として、印をつけているはずだ。
黄良と夢龍、そして、男の三人は、出口を目指して走り出した。
吹きさらし、野外に並ぶ牢の列を駆け抜ける。当然、投獄されている者達が騒ぎだした。
「くそっ、うるせぇ奴らだ」
苛立つ黄良へ、男が言った。
「看守に、衛兵に、感ずかれる 。鍵を持っているのだ、全ての扉を開けてやれ!」
そんな、まどろっこしいことしてる時は……と、言いかけ、黄良は、ニタリと笑った。
「なるほどな、こんだけ、わんさか、罪人がいるんだ。混乱させてやるかっ!」
黄良は、それぞれの牢の鍵を開けた。すると、勢い良く皆飛び出し、あっという間に人混みができた。
「これほどまで、罪の無い者が、囚われていたとは」
男の呟きに、黄良が問いかける。
「あんた、何者か、知んねぇけどな、夢龍を、焚き付けてくれた罪は、重いぜ」
「……何?」
いぶかしむ男に、黄良は言った。
「あいつ、官庁、つまり学徒の居る母屋へ向かった。あんたが言った、暗行御史《アメンオサ》の証とやらを取り戻しに」
「なにっ!追いかけねば!」
駆け出そうとする男の腕を、黄良は掴む。
「今、足掻いても無駄だ。取りあえず、頭数を揃えるぜ」
二人だけではどうにもならん、と、黄良は言うと、見てみろと、先を男に示した。
牢から出た人の波は、敷地の外へ出て、自由になりたいと、立ちはだかる、衛兵達を、殴り飛ばし、近場の通用門の閂《かんぬき》を、はずそうとしている。
そこを、潜り抜ければ、牢のあるこの官庁と、おさらばできるのだ。
「あー、こりゃー、わざわざ、正門突破しなくても良いな。あんた、この波に乗るぜ!」
夢龍の事を、気にかけつつも、男は、黄良に従った。
確かに、多勢に無勢。頭数、云々と言っているということは、仲間と合流するということだろう。
この騒ぎ。夢龍が、再び、捕まったとしても、すぐに、どうこう処罰はできないはずだ。
案外、守りが此方に気を取られている今なら、夢龍はみつからないかもしれない。
男は、あれこれ考えながら、黄良と、はぐれないように人をかき分けついて行く。
他の者より、頭一つ分、抜きん出ている上背のお陰で、男は、はぐれることはなかったが、黄良は、いつのまにやら門へ行き、閂《かんぬき》を外している輩《やから》達を、誘導していた。
「けっ、けっこう重いな。あんたら、ちょっと、離れてな」
言うと、黄良は、顔を真っ赤にさせながら、閂《かんぬき》を、引き抜いた。
おお!!と、歓声が沸き起こり、皆が殺到し始める。
「あーー、急ぐな、危ねぇーぞ!後ろの奴!見張りしろっ!衛兵が、やって来たら、声あげろ!!」
いいか!皆、ここから出るんだ!と、黄良は、声を荒げ、皆をまとめようとしていた。
雑多な、人混みは、何か、感ずるものがあったのか、言われた通りに動き始める。
押合いへし合いだった人の波は、整然として、次から次へと、門を潜り抜け、外の世界へ逃げ出して行く。
「あんた、わりーなー、この波がさばけるまで、待っててくれよ」
黄良に言われた男は、よし、と、一番最後の固まりへ向かった。
「私が、見張っておく、皆!落ち着いて進め!」
先導する男の姿に、黄良は、あいつ、使えるじゃーねぇーかと、目を細めた。
皆が逃げたところで、男は、頷き、黄良は、ふうと、大きく息をついた。
牢破りに気がついた衛兵達を、ことごとくなき倒た黄良は、荒い息を整え指笛を吹いた。
すると、彼方から、答えるように、指笛の音《ね》が、流れて来る。
「迎えが、来てるようだ。助かった」
少しばかり、気を抜いた黄良へ、男が言う。
「なあ、では……」
「だめだ、分が悪すぎる。仲間が、来ているといっても、一人二人のことだ、夢龍のことは、今は忘れろ」
行くぞと、声をかけられて、男は、渋々従った。
「納得できねぇ所もあるだろうかなあ、物事には、段取りって、もんが必要だろ?それよりも、あんたこそ、どうするんだ?」
行くあてはあるのかという、黄良に、男は首を振る。
「そんなことだろうと、思ったぜ。ついて来な」
こうして、二人は待っていた馬に乗ると、春香の店へ向かった。
その頃、智安《ちあん》は、店先で酔いつぶれている春香を尻目に、連れてきた配下達と、策を練っていた──。
「そろそろ、黄良達が、逃げ出して来る頃だ。話を聞いて、こちらの思惑を通すかどうか考える。だがね、まずは、黄良の身の安全が第一。きっと、牢破りを探して兵が動くはすだから」
こっちの身も危なくなる、この子だって、今度は、連れて行かれるだろう、と、すっかり、地に落ちた春香の姿に智安は肩をすくめた。
「はあ、男一人で、ここまで、変わるものかねぇ、全く。その、男が、捕まったんだ、飲んだくれてる場合かいっ」
「そのことで、相談が、姐さん」
黄良が、戸口に立っている。
「おや、無事だったか。で、まさか、その、隣のが?」
怪訝に伺う智安へ、黄良は、あーと、男を見ながら、違う違うと、笑いつつ、すぐに、真顔になり、机《たく》に、酒とつまみを並べ突っ伏している春香を見た。
「春香のやつ、なんでまた?!」
「さぁねえ、本人に、聞いてごらんよ」
呆れ果てる智安へ、黄良は、仕方ねぇなぁと、愚痴ると、隣に立つ男を顎で示して、
「こいつは、牢で一緒だった男だ。なんだか、裏が、ありそうなんで、連れてきた」
と、男を紹介した。
「へえ、男は、男でも、男違いか」
何か、察したような顔をして、智安は男を見た。
「……で、どちら様の手の者だい?」
「私か?手の者、と、いうほどでもないがな、下学徒《ペョン・ガクト》の後釜かな?」
なんだって!と、場は、ざわめき、皆は一斉に責めるような眼差しを、黄良へ送った。
「あー、この兄さんは、関係ないだろ?で、何故だかなぁ、学徒の名前を出すと、こうなる。こちらも、いい迷惑だ」
黄良を庇いながら、男は、身分を明かした。
自分は、次期、南原府使、朴時優《パク・ジユウ》だと──。
「やっ、それはっ!」
「えっ、ってことは!」
「学徒の仲間ってことかよ!」
「はあ、ここでも、口を揃えて、こうだ。全くなぁ」
男──、時優は、顎髭を撫でながら、首をひねっている。
そんな、ざわめきの中、春香は、ぼんやり、煤けた天井を眺めていた。
頬にあたる机が、冷えているからか、なぜか、春香は声をたてることなく、泣いていた。
自分でも、何が起こっているのかわからなかった。
止めどなく流れる涙に、春香自身、呆れた。
そして、不思議なことに、子供の頃の事を思い出している。
天高く登り、纏う朱《あか》色の裳《チマ》。
お下げ髪の少女は、鞦韆《ブランコ》の板に立ち、体を縮め、そして、伸ばしと、繰返し、鞦韆を漕いでいく──。
幼き頃、祭りに出たいと、春香は、鞦韆の練習を行った。それを、楼閣の影からこっそり覗き見する男の子がいた。
同じ年頃の子供など、黄良以外、誰も近寄らない。
妓生《キーセン》の子供だからと言って──。
「あたし、祭りに出るんだ!見に来てくれる?」
そんなことを、男の子へ、言ったような気がする。
しかし、その子は、追いかけて来た、お付きに見つかって、連れて帰られた。
「待って!ちょっと待って!あんた、名前は?」
──夢龍……。
そう、聞こえたような気がする。
「……夢龍……か」
春香は、子供の頃の記憶に、涙した。