朝の駅、5番乗り場
朝の駅はいつもと変わらない静けさの中で始まっていた。
駅の広場には、人々の姿がまばらに見える。通勤通学のピークが過ぎ、ようやく静寂が戻ってくる時間帯だ。風がひんやりと肌を撫で、朝の空気は少し冷たくて心地よい。
出口沙良は、いつものように少し早く駅に到着して、5番乗り場に立っていた。
制服のリボンを無意識に直しながら、スマホを手に取って、メールを確認している。
どこか眠たげで、まだ眠気を引きずった表情だが、それでもふとした瞬間に見せる笑顔が、周囲の空気を柔らかくしている。
「今日も、普通の一日だな…。」
心の中で、いつもの朝を感じる。学校へ行くのは当然だし、いつもと変わらない。
でも、彼女には少しだけ、何かが違う気がしていた。それが、総司のことだった。
その時、駅の改札を抜けてきた名越総司が、静かに沙良の前に現れた。
名越総司は、いつものように落ち着いた足取りで歩いてきた。
表情は穏やかで、どこか冷静で、外見からは彼の内面を読み取ることはできない。
だけど、彼が目を向ける先にいるのは、いつだって一人――出口沙良だった。
彼は、少しだけ躊躇いながらも、沙良の前に立つ。
「おはよう、沙良。」
総司の声が、静かな朝の空気に溶け込むように響く。
それは、どこか優しく、でもどこか冷たい。
沙良は顔を上げ、少し驚いた様子でその声の主を見た。
「あ、おはよう、総司くん。」
沙良の笑顔が、総司の胸に静かに響く。
彼の目が、無意識のうちに沙良の顔を見つめていることに気づいた彼は、少しだけ目を逸らして、軽く首を傾げる。
総司にとって、沙良の笑顔は、どこか特別なものだった。
彼はいつも、沙良の存在を気にかけている。でもそれを口にすることはない。
ただ、見守ることしかできない自分に、時折苛立ちを感じることもある。
「今日はバス、混んでるかな?」
総司の声は、いつも通りに穏やかだ。
それでもその声には、どこか心配するような、余計な感情が隠れている。
「うーん、どうだろうね。でも最近は、この時間帯に来る人が少なくて、むしろラッキーだよ。」
沙良は少し考えてから、笑顔で答える。
総司はその笑顔を見て、ほんの少しだけ胸が温かくなる。
だけど、その瞬間、頭の中にふっと別の思いが浮かんでしまう。
「もし、沙良が他の男子と話していたら?」
その思いに、総司は少しだけ顔をしかめる。だが、すぐにそれを振り払うように、再び目を沙良に向ける。
「昨日のテスト、どうだった?」
総司は沙良に向けて、軽く問いかける。
テスト結果が気になるわけではない。
彼は、ただ沙良のことを知りたかっただけだった。
「うーん、まあまあかな。でも、総司くんはきっと大丈夫でしょ?」
沙良は少し考え込むが、すぐに笑顔を見せる。その笑顔が、総司の胸にずしりと響く。
総司は少し照れたように、肩をすくめる。
実際、彼はテスト結果を気にしているわけではない。
沙良と話している時間が、今の彼にとってはすべてだった。
「でも、無理しないでね。休むことも大事だよ。」
総司は少し優しげに言った。
沙良は少し驚いた表情を浮かべるが、すぐにその言葉を受け入れ、穏やかに笑う。
「ありがとう、総司くん。でも、私は大丈夫だよ。気を使ってくれて、ありがとうね。」
その言葉に、総司は小さく頷く。
だが、心の中で何かがざわついているのがわかる。
どうしてだろう? こんなにも、沙良の無邪気な笑顔に心が揺れるのだろうか?
その瞬間、バスが遠くから近づいてくるのが見えた。
「じゃあ、乗る?」
総司が静かに言うと、沙良はうなずきながら歩き出す。
二人は並んで歩き、バスの乗り口で総司は少しだけ前に出て、沙良に道を譲る。
その仕草は、まるで無意識に沙良を守るようなものだった。
「今日は、いい天気だね。」
バスに乗り込むと、総司はふっと窓の外を見つめながら言った。
沙良はその言葉に、明るく返す。
「うん、そうだね! 気持ちがいいよね。」
沙良の声には、心の底からの明るさが込められている。それが、総司を少しだけ安心させる。
だけど、同時にその笑顔が、総司の心に、また一度温かさを広げる。
けれど、その温かさの奥底に、どこか冷たいものが潜んでいることに、総司自身も気づいていた。――沙良が他の誰かと話すときの、その笑顔を見せるときの、自分の中で沸き上がるわずかな不安。
バスが発車し、車内が静かに動き始める。
二人は並んで座り、窓の外を見つめる。
周りの景色が流れていく中、総司は少しだけ目を閉じ、深く息を吐く。
彼の心の中では、いつも同じ思いが渦巻いていた。
沙良を守りたい。
その一心で、彼は自分の気持ちをひたすら押し込めていた。
だけど、どうしてこんなに彼女を守りたくて、どうしてこんなに彼女を気にしてしまうのか。その答えは、彼の中でもはっきりしなかった。
けれど、その心の叫びを誰にも見せることなく、総司はただ静かにバスの中で目を閉じた。
心の中の呟き
「沙良…」
心の中で、総司は呟く。
その声は、誰にも届かない。
けれど、総司の心の中では、はっきりと響いていた。
「俺は、ずっとお前を守りたい。」
その言葉が、今日もまた胸の中で鳴り響く。
沙良はそのことを、決して知らないだろう。
でも、総司にとってはそれが、ただ一つの大切な約束のように思えた。
バスが学校の正門に到着すると、静かな朝の空気が二人を包み込んだ。
名越総司は、肩のリュックを軽く直しながら、目の前に広がる校舎を見上げた。その背後では、出口沙良が少し歩幅を合わせるように、彼の隣を歩いている。
二人の間に交わされる言葉は少ない。だが、それが何となく心地よく、穏やかな空気を作り出していた。
「今日は少し肌寒いな。」
総司がポツリとつぶやくと、沙良は少し笑いながら答える。
「うん、でも、朝はこういう方が気持ちいいよね。」
そのとき、少し先から聞きなれた元気な声が飛んできた。
「おはよー!」
秋山蓮が、校門から走り寄ってくる。彼の歩幅は大きく、風を切って走るような軽やかな足音を立てながら近づいてきた。
総司と沙良は自然に顔を向け、蓮に向かって微笑んだ。
「お、蓮。」
総司が軽く頭を下げて挨拶をする。
「おはよう、蓮くん!」
沙良もにこやかに笑いかけると、蓮はその明るい笑顔で二人を迎え入れる。
「いやー、今日も元気そうだなー!」
蓮は言いながら、目を細めて二人を見ている。その表情には、まるで二人を見守るような優しさが漂っている。
「お、そういえば蓮!」
総司が急に思い出したように声を上げた。蓮は少し首をかしげる。
「昨日のアニメ、見たか?」
その言葉に、蓮はすぐに反応した。
「見たよ!総司こそ、昨日のホロライブの生配信、見たの?」
総司はその問いに、目を輝かせる。
「見たよ!さくらみこ、よかったよな!」
その瞬間、蓮の表情が少し嬉しそうに歪んだ。
「うん、みこち最高だった。最初から最後までずっと面白かったな。」
蓮は言いながら、思い出したように笑った。「いや、総司があんなに興奮してるの、ちょっと驚いたけどな。」
総司は少し照れたように肩をすくめるが、目は楽しげに輝いている。
「いや、だって、あんなに可愛い声で応援されると、つい熱くなっちゃうだろ。」
照れくさそうに言う総司の顔が、少し赤くなる。
その反応に、蓮は大きく笑った。
「ハハ、さすがだな、総司。みこちの声には勝てないよな。」
そのやりとりを見て、沙良は軽く口元を緩めた。
「ふふっ、総司くんも意外とノリノリだったんだね。」
沙良がそんな風に言うと、総司は一瞬目を見開いた後、さらに顔を赤らめてうつむいた。
「まあな、俺だってアニメくらいは普通に楽しむさ。」
総司はなんとか冷静を装い、目をそらしながら答えた。
蓮は、その様子に少し笑みを浮かべながら、肩を軽く叩いた。
「でも、アニメだけじゃなくて、今度はみんなで集まって一緒に見ようぜ。」
その言葉に、総司の顔がぱっと明るくなった。
「それ、いいな。」
総司はすぐに賛成し、目を輝かせながら言った。「今度、沙良も一緒にどうだ?」
「うん、楽しそう!」
沙良はにっこりと答えた。少し照れくさいけれど、そんな彼女の笑顔に、総司は思わず心が温かくなった。
蓮はその二人を見て、満足そうにうなずいた。
「よし、決まりだな。今度の週末にでも、みんなで集まってアニメマラソンだ!」
蓮はそう言って、楽しそうに大きく手を振った。
その後、三人は学校の中に入っていった。
静かな朝の空気の中で、二人と一緒にいるだけで心が少しだけ軽くなったような気がする。総司はそんなふうに思いながら、学校の階段を上る足取りを軽くした。
教室内は静かで、黒板には先生が書いた**「ゲームのルール」**が目に入る。
今日はちょっと変わった授業が始まるようだ。普段は退屈な授業に飽きている生徒たちも、今朝ばかりはどこかワクワクした顔をしている。
先生が立ち上がり、少し大きめの声で言った。
「今日は、みんなでゲームをやっていくぞ。ルールは…」
その時、教室の一角で、出口沙良が突然総司に小声で話しかけてきた。
「ねえ、総司くん、催眠術って知ってる?」
その声に総司は少し驚きながらも、すぐに答える。
「うん、知ってる!でも、なんで突然?」
沙良は満面の笑みを浮かべながら、何かを思いついたようにニヤリと笑った。
「それじゃ、やってみようかな?」
そう言って、沙良は指をクルクルと回し始めた。まるで何かの魔法をかけるかのように、指を軽やかに回し続ける。
その様子を見た総司は、思わず微笑みながら、つい見入ってしまう。
その瞬間、授業中の緊張感を少しだけ忘れ、二人の世界に引き込まれてしまいそうになる。
だが、その時、教室の前から聞こえた先生の声に、二人はハッと我に返る。
「総司、沙良!何やってんだ?授業中だぞ!」
先生の鋭い声に、二人は同時に顔を赤くして、慌てて答える。
「す、すみません!」
総司と沙良が声を揃えて謝ると、教室中の目が二人に集まる。その視線が一気に集中して、総司は顔がますます熱くなった。
先生はため息をつきながら、少しだけ眉をひそめる。
「催眠術だと?お前ら、ゲームよりそっちの方が気になったのか?」
その言葉に、総司は急いで言い訳をしようとしたが、言葉が出てこない。
ただ、隣で沙良が笑いながら、顔を真っ赤にしながら答える。
「すみません、つい…」
その反応を見た先生は、少しだけ苦笑いを浮かべてから、ふっと手を振った。
「まあ、今回は許してやる。でも次からは、授業に集中してくれよな?」
その言葉に、総司と沙良はお互いに顔を見合わせて、少しだけ照れくさそうに笑った。
授業は再び進んでいくが、二人の間に流れる空気は少しだけ違っていた。
教室の静けさが戻った。授業が続く中、出口沙良はふと机の中から何かを取り出し、ページをめくり始めた。彼女の手にあったのは、ジャニーズの特集が組まれた本。興味津々でそのページをじっくりと見つめている。
総司はその沙良の姿を見て、少し首を傾げながら言った。
「へえー、ジャニーズの本か〜。」
沙良はその言葉に、にっこりと笑って顔を上げる。
「うん!めっちゃ面白いよ!」
沙良はまるでその本の中に書かれているアイドルたちの魅力を語るように、目を輝かせて言った。
総司は少しだけ考え込んだ後、興味本位で言った。
「見るね。」
沙良は嬉しそうに本を差し出す。総司は軽く手を伸ばし、その本を受け取った。
パラパラとページをめくる総司の目に、そこに載っているアイドルたちの笑顔が映る。
「へえ…、なにわ男子か。」
総司がしばらくそのページを眺めながらつぶやく。目を引いたのは、道枝駿佑の笑顔だった。特にその明るくて爽やかな表情に、総司は無意識に見入ってしまう。
「なにわ男子、いいな…特に道枝駿佑がいい。」
総司はしばらくそのページを指でなぞりながら、何となく感心したように言った。
その言葉を聞いて、隣で秋山蓮がクスクスと笑いながら言う。
「たしかにな。」
蓮は総司の肩越しに本を覗き込むと、少し真面目な顔で続けた。「でも、大橋和也もいいぞ。あの笑顔、なんか元気もらえる感じするし。」
総司はその言葉に一瞬黙って考え込む。確かに、大橋和也の明るくて、少しおちゃめな表情も悪くない。
「うん、それはそうだな。大橋和也も、なんか見ていて元気になる。」
沙良は二人のやり取りを楽しそうに見守りながら、目を輝かせて言った。
「ね、やっぱりジャニーズっていいよね!皆個性的で、それぞれ違った魅力があって…もう本当に目が離せないの。」
総司と蓮は、お互いに顔を見合わせて、少し笑い合った。二人とも、ジャニーズにあまり詳しくなかったが、沙良がそんな風に語る姿に、なんだか引き込まれてしまった。
「じゃあ、今度みんなでジャニーズのライブDVDでも見ようか?」
蓮が冗談のように提案すると、沙良はすぐに顔を輝かせて返事をする。
「それ、めっちゃ楽しそう!絶対見たい!」
沙良のその反応に、総司も少し笑いながら頷く。
「じゃあ、今度の日曜にでも…」
総司が冗談っぽく言うと、蓮もにやりと笑った。
「いいね、それ。絶対盛り上がるぞ!」
蓮は楽しそうに言って、再び自分の席に戻る。総司と沙良も、何となくその会話が楽しくて、微笑みながら教室に戻る。
学校の授業が終わり、みんなが帰り支度をしている。
教室の中では、今日の疲れが少しずつ表れ始め、静かなざわめきが広がっている。その中で、先生が大きな声でみんなに告げた。
「お前らー!集団行動だ!玄関までみんなで向かうからなー!」
その声に、教室内が一気に動き始める。生徒たちが立ち上がり、リュックを背負いながら教室を出る準備を始める。その中で、出口沙良は総司に軽く声をかけた。
「ねえ、総司くん、しりとりやろー♡」
沙良は、にっこりと笑いながら総司に向かって手を差し出した。彼女の目が輝いていて、まるで無邪気な子供のように楽しそうだった。
名越総司は、少し驚いた表情を浮かべながらも、すぐに笑顔で返事をした。
「いいねー!」
総司はうれしそうに答え、沙良と並んで歩きながらしりとりを始める準備をする。
「じゃあ、総司の『じ』からね!」
沙良が元気よく言うと、総司はちょっと考えてから答えた。
「じゃあ、じー…『自転車』!」
総司が言うと、沙良はすぐに返答した。
「『車』!」
沙良の言葉が続くと、二人は歩きながらしりとりを始めた。周りの友達がちょっと不思議そうに見守る中、二人の声だけが楽しそうに響く。
しかし、その楽しげなやりとりも長くは続かなかった。
「おいおいお前らー!」
突然、教室の後ろから聞こえてきたのは、あの元気な先生の声だった。
「お前らー、他のやつから距離離れてんぞー!」
先生の声に、二人は一瞬ギョッとして顔を向けた。
名越総司(ちょっと焦りながら)
「す、すみません!」
出口沙良(軽く笑いながら)
「すみません、つい…」
総司と沙良は、お互いに顔を見合わせ、少し照れくさそうに笑った。沙良の目がキラキラしているから、つい楽しそうに会話してしまったが、やはり集団行動をしなければならないということを思い出す。
先生は、軽くため息をつきながら、少し笑って言った。
「まあ、気持ちはわかるけどな。しりとりもいいけど、みんなと一緒に歩けよー。」
その言葉に、総司と沙良はちょっと肩をすくめながら、あらためて集団に戻ることにした。
名越総司(少し笑いながら)
「はい、先生。」
出口沙良(照れ笑いを浮かべながら)
「うん、わかった…」
二人は笑顔を交わしながら、集団の中に戻り、先生の後ろに続いて玄関へ向かう。
その背中を見つめながら、沙良はほんのりとした笑顔を浮かべて、少しだけ心の中で思った。
(でも、しりとりはやりたいなぁ…。また今度、総司くんと二人でやろうかな。)
名越総司は自分の部屋のデスクに座り、薄暗い部屋の中で一人、静かに考え込んでいた。
机の上には教科書やノートが散らばり、少しだけ乱雑な印象を与えている。だが、総司の目はそれらにはほとんど興味を示さず、ぼんやりと外の景色を眺めている。
窓から見える夜空には、わずかに星が輝き、街の灯りがぼんやりと広がっている。
心の中では、どこか浮ついた気持ちを抱えながら、今日一日のことを思い出していた。
(早く…明日になってくれ…)
総司はそっと呟くように思う。
昼間、沙良と過ごした時間が楽しすぎて、ついつい時間が経つのを忘れてしまうほどだった。そのことを考えるたびに、胸が少し熱くなる。
だが、今日の一日は終わってしまった。沙良と過ごす次の瞬間が待ち遠しくて、時間がこんなに遅く感じるのは久しぶりだった。
(沙良にはやく会いたい…)
総司はゆっくりと深呼吸をして、目を閉じた。
沙良と過ごす時間は、いつも明るくて楽しくて、どこか安心感を与えてくれる。彼女の笑顔が、いつも総司を支えているような気がする。
今、総司の心の中には、沙良ともっと近づきたいという気持ちが強く湧き上がっていた。彼女が自分にどんな風に思っているのかはわからない。でも、少なくとも今の自分の気持ちは、確かなものだった。
「どうしてこんなにドキドキするんだろう…?」
総司は静かに自分に問いかけながらも、答えを出さないまま、再び窓の外に目を向ける。
(今度、もっと沙良と話したいな。もっと、色んなことを一緒にしたい。)」
その時、総司の胸がほんの少し高鳴った。
外の風景がぼんやりと揺れる中で、彼の心の中でも何かが動き出しているのを感じた。
明日、沙良と会ったとき、どんな話をしようか。どんなことをして過ごそうか。いろんなことを考えていると、自然と顔が緩んでいった。
(うん…明日、沙良と一緒にいる時間が楽しみだ。)
総司は静かに微笑みながら、もう一度深く息を吸った。
今夜はまだ長いけれど、明日を楽しみにしている自分が、どこか心地よく感じられるのだった。
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