…… 先程。契約印に魔力を馴染ませる行為が、とうとう終わってしまった。
(終わって、しまった…… 。——クソッ!)
ルスとの出逢いから、かれこれ一ヶ月。そもそも本来ならば早々に終わる行為を引き伸ばしに引き延ばしてきたが、もう限界だった。さっさと契約印を定着させて完全に同調し、異世界にまで行ってルスを産んだ女をこの手でとっとと始末してしまうというのも魅力的な案ではあったのだが、それ以上に、目の前の欲には勝てなかった。
「大丈夫か?水でも持って来ようか」
カーテンの隙間から月明かりが差し込む部屋のベッドでぐったりしているルスに声を掛ける。だが返ってくるのは虚な視線と雑な呼吸音ばかりだ。真っ白なシーツは彼女の愛液でぐっしょりと濡れ汚れ、力の入らぬ手脚はビクビクと小刻みに震えている。何度も何度も達したせいでルスの意識はほぼ無い。だけど水分くらいは摂らせておいた方がいいだろうと考え、僕は冷えた水の入ったコップを何処かから適当に拝借すると、それを口に含んで口移しでルスに飲ませた。
「んっ…… ふっ、んくっ」
貪るみたいにルスが水を飲み込んでいく。口を離した時には意識をしっかり取り戻せたのか、掠れ声で「ありがと」と呟いた。口の端から垂れている水を指先で拭うと、「んっ」と甘い声がルスからこぼれ出る。そんな声を聞くだけで胸の奥がちょっとくすぐったくなった。
「疲れただろう?…… あとはもう、寝ておけ」
もう全てが終わったのだとは、どうしても言えなかった。言ってしまえばこの行為をもう出来なくなる。僕の手の中で、馬鹿みたいにぐだぐだになっていくルスの姿をもう見られなくなるのだと思うと、『完了した』の一言がどうにも出てこない。 絶望に打ちひしがれて泣き叫ぶ過去の契約者達の姿を思い出すよりもずっと、今さっきまで僕に見せてくれていた、快楽で崩れるルスの表情の方がよっぽど心が高揚するせいだ。毎夜下っ腹の重たさに耐えるのは拷問を受けているような気分にはなるが、ルスの体を好きに弄る時間に楽しみを見出してしまっている事はどうしたって否定出来ない。
困った事に、この感情はルスの望みなどではなく、自分自身から湧き出てくるものである事も自覚出来ている。
何らかのまやかしや媚薬に支配でもされない限り、初心なルスが自分からこんな行為を望むはずがないからだ。この感情はきっと、今までの、肉欲とは無縁な少年少女の肉体とは違って、酸いも甘いも知り尽くしたようなオッサンの体になったせいに違いない。…… そうでないと、僕の中で説明がつかない。
「うん、そうだね」
気恥ずかしそうに力なく笑い、ルスが頷く。昼間は討伐ギルドの初級者向け講習に補助要員として参加していたし、二人でも可能な討伐ギルドの依頼をこなしても来たから体力はもう限界なのだろう。ルスが自分で回復してしまう手もあるが、夜ももう遅いから順当に寝かせた方がいい。
「スキアはまだ寝ないの?」
「ルスの体を綺麗にしたら、僕もすぐに寝るよ」
浄化魔法をかけてやり、愛液やら汗だ唾液だで散々な状態になっている体とシーツを一気に綺麗に戻していく。
「魔法って、本当に便利だよねぇ」
しみじみとしながらそう言って、ルスがゴロンッとベッドに寝そべった。嬉しそうに尻尾を振っていてちょっと可愛い。さっきまでの色っぽさはどこへ行ったのやら。
「多分、ルスも練習したら使えるようになると思うぞ」
「本当?それなら覚えたいな、洗濯の手間が減りそうだし!」
勝手に洗濯が出来る“洗濯機”とやらがルスの世界にはあったみたいだが、此処じゃもっぱら手洗いか魔法が頼りだ。浄化魔法は誰もが使える魔法ではないのだが、ルスとの相性は悪くないはずなので練習次第でどうにかなるだろう。もし無理だったとしても今みたいに僕がやればいいだけの話だ。
「明日も確か、講習に同行するんだったよな?」
「うん。今日と同じメンバーで、次は馬車の借り方と野営の方法を教える為、実際にテントを組み立てたり、食事の準備なんかを教えるみたいだよ」
「泊まりでの討伐に備えての訓練か。まぁ、必要だよな」
「…… うん、私もそう思う」
ふかふかな枕が持つ不思議な魔力に魅了でもされたみたいにルスの瞼が落ちていく。そんな彼女の体に掛布をかけてやると、数秒も待たずにルスが眠りの世界に落ちていった。
「…… おやすみ、ルス」
話ながらじっと様子を伺っていたが、契約印へ魔力を馴染ませる行為が完全に終わった事を体感している様子は無かった。無尽蔵に魔力を扱えるようになった事も、聖女認定されるくらいに回復魔法を操れる様になった事にも気が付かぬままだ。
(…… これって、僕が黙ったままでいたらバレないんじゃないか?)
うん、終わったかどうかを訊かれるまではこのままでいよう。もしとっくに終わっていた事を悟られたとしても、『夫婦っぽい事を続けていただけだ』と言い張ればルスなら簡単に信じそうだ。
「決まり、だな…… 」
闇夜に溶けるくらい小さな声で呟き、微かに寝息を立てているルスの髪をそっと撫でる。こんなにも触れたいと思える契約者は初めてだ。例えこの感情が彼女から強要されているものだとしても、ここ最近は抗う気にもならないのは僕の意思である。
「すっかり絆されてるな…… 」
ベッドに横になりがら吐息混じりにそう言って、枕に頭を預けて眠るルスの体をそっと腕の中に抱く。穏やかな眠りの世界に誘われながら僕は、善性に毒されていくのも悪くは無いのかもしれないと、とんでもない事を考えてしまったのだった。
——夢を見ている感覚が僕を襲う。ルスの“記憶”を辿る夢だ。この二、三日は見ていなかったから油断していた。
最初の頃に見た重要な出来事からは遠く離れ、前回は確か、一人きりで何日にも留守番をしていた時のものだった。
その前は、体調を崩して寝込んでいる祖母の側で、どうしたらいいのかわからずにただ茫然と座っている時の記憶を垣間見た。淡々と無意味な時間が流れていくだけの記憶を見るのは正直苦痛で、退屈で、不快感を覚えるものばかりだ。
起きている間は息をして、後は眠るだけ。
そんな日々ばかりだったんだ、僕らが初対面の時にルスが、『目を開けたらまだ生きていたから、仕方なく生きているだけだし』と言っていた理由がよくわかる。
『…… 』
上手く切れていないせいでぐちゃぐちゃな髪形で、顔が真っ黒に塗りつぶされた状態の子供がそわそわとした様子で玄関をじっと見ている。木の枝みたいに細い腕と脚、血の気も艶もないガサガサの肌、祖母のブカブカな服を着ているから間違いなくルスだ。
壁にあるカレンダーを見上げたが、黙ったまま視線を逸らした。どうやら祖母が随分と長い期間帰って来ていないみたいだ。周辺を徘徊してしまっていて家に戻れぬ事が一日や二日程度なら今までにも何度もあった。だが今回はもう一週間以上帰って来ていない。とっくに賞味期限の切れた赤子用の粉ミルクを水に溶かした物を飲んで飢えを凌いではいるが限界に近く、どうしていいのかわからずルスは茫然としている。
こんな綱渡りの生活をし続けてきているからか、カレンダーを見る限り、このルスは九歳にはなった頃合いかと思うのだがとてもそうは見えない。
相変わらず部屋はカーテンが閉まったままで薄暗く湿っぽい。だけど時間だけはたっぷりあるからなのか、祖母の見様見真似で覚えたおかげで掃除はしているらしく、意外にも室内は整っている。同じ物が大量に詰まった段ボールだらけの部屋も一応片付けはしてあるが、本人の姿は見るに耐えない。
——そんな様子を全て俯瞰状態で見ている。彼女の記憶は相変わらずどれも他人視点だ。きっとこうする事で心を守っていたのだろう。
…… そう思うと、柄にもなく泣きそうになった。
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