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見慣れたベッドで目が覚める。ぼんやりと天井を眺めていると、手を握られている事に気がついた。
「……」
傍で兄がベッドに突っ伏したまま寝ていた。
…海がいるわけないか。
兄を見つめて、看病してくれていたんだと気がつく。 仕事はどうしたんだろうか。
「…あ」
僕はどうやって帰って来たんだろう。意識が突然途切れていて最後の記憶は、確か海を問い詰めようとして……
脳裏に浮かんだのは海と、変な夢の事だ。夢の内容は鮮明に思い出せる。
僕、死んだのかな。
胸に手を当てると、どくんと心臓の鼓動を感じた。
僕は生きている。
なのに、どうしてこんなに生きているという実感が湧かないのだろうか。
ずっと、そうだったのかもしれない。ありふれた日々に溺れて、つまらない日々は息苦しくて、ずっとどこか遠くへ行きたいと思っていた。
そんな生活に違和感すら感じず、どうせなら楽しんでやろうと自分勝手な行動ばかりしていた。
そして、そのツケが回って来たんだろう。僕は生まれ育った場所を離れる事になった。
新しい環境は悪くなかった。
そこで僕は初めて、運命というものに出会い恋をした。
それすらも、僕の意思ではなかったのだろうか。彼女を好きだという気持ちは、借り物だったのだろうか。
海と一緒にいるのは楽しかった。何故か惹かれるようになって、当然のように2人で過ごすようになった。
海への想いも、全部偽物だったんだろうか。
海はきっと、何か知っている。 それなのに何も言おうとしない。
それは、僕に知られたくないという事だろうか。
正直に言うと、僕だって何も知りたくない。だが知らなくちゃいけないのだ。
何も知らないまま生きていくなんて考えられないから。
静かに、できる限りの注意を払いベッドから出る。
「あや…くん……」
起こしてしまったかと思ったが、寝言のようで兄はまだ僕の袖を掴んでいた。
まるで僕が今から何をしようとしているのか知っているみたいだ。
兄ちゃんはいつもそうだ。 いつだって正しかった。
「…ごめん」
そっとその手を解く。
僕はこれから間違えた選択をする。それしか、思いつかないから。
ごめんとありがとうのメモを兄宛に書き残し、そのまま家を出る。
兄を裏切ってしまったかのように感じて、少しだけ胸が痛んだ。
まだ2月も半ばで、凍えそうなほど外は冷え込んでいた。 空を見上げると月が出ていて、真夜中だというのに少し明るかった。
裸足のまま、 ぼーっとする頭で、誘われるように、導かれるように、海へと足を運ぶ。
ぴちゃ
足が水を踏んだ。
ザァ…サザァ…ザザ
海が満ち干くが聞こえる。
足を止めずに、前へ進み続ける。
夜の海は真っ暗で自分がどこにいるかさえ分からなかった。
体がどんどん水に沈み、ついに頭まで浸った。
体が並行感覚を失い、真っ暗い闇の中に包まれ落ちていく。
ごぽ。
息ができない。
目を瞑る。
波に揺られて思ったのは、苦しいとかじゃなく、懐かしいと思う気持ちだった。
確か、前はずっとこうしていたっけ。
… 前っていつだったか。
目を開けると、まるで夢のあのシーンと重なったかのようだった。
何かを思い出せそうなのに、あと一歩だというところで夢から現実へと覚めていく。
…何、してるんだろ。
いつの日か、僕はここで死んだというのに。
どうしてまた同じ事を繰り返すんだろう。
あの時の僕にはまだやるべき事があったはずなのに、何も思い出せない。
ごぽ。
息ができない。
早く、水面に上がって息をしないと。
そう思ったのに、冷えきった体は嘘のように力が入らず動く事ができなかった。
本当に馬鹿みたいだ。
水面に手を伸ばす。脳裏に浮かぶ、大切な人たちの姿に涙が溢れた。
もう、会うことはできないのかな。
深く、深く沈んでいく。
全てが暗闇に包まれていった。
「何してるんだ?早く行かないと置いてかれるぞ」
体をゆすられ、はっと気がつくと兄が困ったような顔をしていた。
「やーっと反応した」
「おはよう」
伸びをして、くるりと回る。
体は軽く、すこぶる調子が良い。
「ねえ兄ちゃん、僕と勝負しようよ」
「また?」
「今日は絶対僕が勝つからね」
「嫌だ」
「なんで?」
「嫌だから」
「ははん、さては僕に負けるのが怖いんだ?」
「だったら何」
「えっ」
兄の意外な反応にびっくりしていると、仲間達の呼びかける声が聞こえた。
「今行く! 」
2人でそう言い、全速力で仲間の元へ泳いだ。
思い出さないといけない事があるはずなのに、何も思いだせない。
捕まえた魚を食べながら考える。
「まあ、気のせいか」
呼吸をするために水面へ上がる。
「あ!」
するとそこにはひとつの船が浮かんでいた。よく見ると、釣りをしている人間が3人。
近寄り、顔を出すと人間は何かを話し出した。
「げ、イルカじゃねーか 」
「もしかしたら近くに群れがあるかもしれないな」
「それじゃ魚釣れないぞ 」
何を言ってるか分からないが、3人とも僕を見ている。
とりあえず得意の大ジャンプを披露する。
「おお」
3人とも手をぱちぱちと叩き、喜んでくれたみたいだ。
僕は満足して水の中へ潜り群れへと戻る。
人間は好きだ。
特に理由はないけど。
泳いで、泳いで、泳ぎ続ける。たまに狩りをしたり、少し休んでまた泳ぐ。 200頭以上いる群れにただ付いて泳ぐのだが、子供の頃はそれだけで精一杯だった。
それから長い月日が経って、僕は群れのリーダーとなった。
頭の良さ、顔の良さ、そして強さで決まる。僕は他の奴らよりも早く泳ぐ事ができるし狩りも得意で喧嘩にも負けた事がない。それにとてもモテる。
沢山泳ぎ、仲間たちと広大な海を旅した。協力して狩りをしたり、人間たちを驚かせたり、くだらない話をしたりと楽しい日々を送っていた。
でも時々、何か大切な事を忘れているとそう思う事があった。
「リーダー!サメが暴れています!! もう5頭が殺されてしまいました」
「何だと?早く逃げるんだ!」
焦る仲間の呼びかけに応え、全速力でサメの元へと向かった。
そこには仲間達の死骸と、暴走し無差別に仲間達へ襲いかかる凶悪なサメがいた。
昨日まで一緒にくだらない話をして過ごしてきた友の姿もあった。家族を守っていたのか、僕を見て安心したような表情をすると動かなくなった。
「兄ちゃん、あいつは僕が引きつけるから、みんなを連れて逃げて」
「…っ、それなら俺が」
「兄ちゃんより僕の方が強いし、それに1度サメと戦ってみたかったんだ」
軽く兄の背を叩く。兄は僕が群れから抜けたあと、新しいリーダーが必要な事くらい分かっているだろうし、僕にしかできない事だという事も分かってくれているはずだ。
「あと、僕なら余裕だし」
それでもまだ不安げな顔をする兄に、笑いかけてみせる。
「…分かった。どうか、無事で…」
兄は決心したように顔をあげ、まだ名残惜しそうに僕に触れた後、皆を率い始めた。
群れで協力した方が早いと思うが、それだとどれくらいが犠牲になるか分からない。 簡単な話だ。誰かが囮になればいい。
かと言って囮役が弱ければ無駄な犠牲にしかならない。
それにこのサメのように、こぞってイルカばかりを狙うような奴を生かしておく訳にはいかない。
こんなやつに、負ける気もない。
「こっちに来いよ」
「…」
サメは血がついた鋭利な歯を僕に見せつける。とち狂っているのか、会話はできないようだった。
できる限り僕に有利な場所へと誘導する。サメは大きな体をしている割に泳ぎが速い。
地形を利用しながら、隙を伺っては噛みつく。噛みつかれても、必死に退け、また僕も噛み付く。
歪な形の岩が並ぶこの場所では、沈没船が幾つかありその横を通り過ぎようとしたとき、尾びれに何かが絡まった。
「っ…何で」
サメは物凄いスピードで僕に襲いかかる。間一髪で避けたが、完全には避けきれず大きな怪我をした。
痛みでどうにかしそうだったが、網のようなよものに引っかかって逃げる事もできない。
「…くそっ……ぶっ殺してやる」
サメの首に噛みつく。サメは引き離そうと暴れだしたが、僕は必死に力を込める。
ここでサメを離してしまったら、諦めてしまったら、もう僕は死ぬだけだ。
…何としてでも道連れにしてやる。
お互いの血で水が濁っていた。
「〜ー! !」
それから、どれくらい時間が経っただろうか。
ついにサメは動かなくなった。
「…勝った、」
視界はぼやけていて、もう力が入らなかった。
本当はもっと遠くへ、旅がしたかった。
でも、これで良かったんだろう。僕は凄い事をした。イルカの僕が、1匹でサメを倒したのだ。
きっと仲間達の間で僕は伝説になるだろう。
「…」
呼吸も限界になり水面へ上がろうにも体が網に引っかかって身動きが取れない。
意識が途切れそうになり、歯を食いしばる。
尾びれをばたつかせ抜け出そうにも余計に絡まるだけだった。
だめだ、もう、これ以上は。
呼吸が出来ず、海水を大量に飲み込む。
ザザ…
「ぁ…綾…」
ザ…ザザ
「…〜!あやくん!!今す…救急車…」
ザ
「…お願いだから息をっ…ー〜!!」
誰の声だろうか。酷く懐かしいとすら思うのに、何も思いだせない。
…何か大切な事を忘れている。
早く、戻らないと。
…どこに?
もうどうでもいいから、最後くらい静かにしてくれよ。
息ができない。苦しい、痛い。
サメを倒したというのに、最後は溺れて死ぬのだろうか。
嫌だ。まだ、生きて兄に会うのだ。皆にサメを倒した事を自慢して、兄ちゃんに褒めて貰うんだ。 大怪我しちゃったけど、まずはどこかで休んで………
「…」
もう何も考えることができなかった。
霞む視界の片隅で、何かが輝いた。
そして意識はぷつりと途切れた。