テラーノベル
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看板の裏に貼られていた文字が、頭から離れなかった。
離れたはずなのに、白い空白だけが意識の奥に残り続ける。
ーーここにいた人を、忘れないで。
ただの手書きの一文だったはずなのに、妙に重く残っている。歩き出してからも、その言葉だけが意識の奥に引っかかり続けていた。
朝倉恒一は、しばらく何も言えなかった。周囲の音は変わらない。人の流れも、車の音も、いつも通りのはずだ。それなのに、自分だけが別の場所にいるような感覚が消えない。
「……なあ、ミヤ」
隣を歩くミヤは、軽く視線だけを寄越した。
「今のやつ、普通に気持ち悪くないか?」
ミヤは肩をすくめた。
「今さら?」
軽い調子だったが、その一言で済ませられる感じではない。
「今さらだけど、あれは別だろ。触っちゃいけないやつ」
恒一がそう言うと、ミヤは少し考えるように視線を上げた。
「うん。触ったね」
「触ったって何を!」
「消えてる場所」
「だからそれ何なんだよ!」
言いながらも、それを否定しきれない。
あの看板の空白は、”何もない”感じじゃなかった。
何かが抜け落ちている。何かがあったはずの場所が、そのまま削り取られているような感覚。そんな違和感だけが残る。
少し前を歩いていたソウタが足を緩めた。
「見られてる」
振り返りもせず、表情も変えない。
「またかよ……」
恒一は周囲を見まわした。
人はいる。普通に歩いている。誰もこちらを見ていない。
でも、その中に”混ざってる”。
そう思わせる何かがある。
「どこだよ」
視線を走らせたとき、不意に引っかかるものがあった。
人の流れの中に、一つだけ違和感がある。
そこに”いる”のはわかる。
だが、顔が分からない。
輪郭だけがぼやけているように見える。
「……あれ」
恒一の足が止まる。
ミヤも同じ方向を見ている。
「見えてる?」
「ああ……でも、顔が分からない」
自分で言っていても、妙な感覚だった。
見えているのに、認識できない。
ソウタも恒一の横についた。
「それでいい」
「よくねえよ」
その間にも距離が少しずつ縮まる。
歩いているはずなのに、速さが合っていない。滑るように近づいてくる。
「……あれ、人だよな」
「途中だ」
「途中ってなんだよ!」
「消えかけてる」
ソウタが短く切ったその言葉で、背中が冷える。
そして、頭の中で何かが繋がった。
さっきの看板。
消えていた情報。
「……消えるって何が」
横からミヤが答える。
「名前」
一瞬、意味が追いつかない。
「名前?」
「名前が消えると、その人はいなくなる」
4,368
みみ/不定期
47
軽い調子のまま続ける。
「いやいやいや、軽く言うなよ」
「記録も記憶も全部消えるよ」
内容が重すぎて、返す言葉が出てこない。
そのとき、視線の先の”それ”が、こちらを向いた。
顔は見えない。
それでも、見られていると分かる。体が固まった。
「……やばいだろ」
恒一の声が小さくなった。
黒猫が低く鳴いた。
それでようやく足の感覚が戻る。
「来る」
「いや、わかってる!」
気づいたときには、さっきよりはるかに距離が縮まっている。
人の流れの中を、まっすぐこちらへ来る。
「動け、恒一」
名前を呼ばれた瞬間、体が反応した。
後ろへ下がって、誰かにぶつかった。
でも誰も気にしていない。
「なんで誰も気づかねえんだよ!」
「見えてないから」
ミヤの答えは短い。
”それ”が手を伸ばしてきた。
触れたら終わる、そんな確信だけがある。
「触れさせるな」
ソウタが一歩踏み込む。
一瞬だけ”それ”の動きが止まった。
「今だ!」
ソウタが叫ぶ。
考える余裕はなかった。
全力で走り出す。
恒一たちは人の間を抜けながら、ただひたすら走り続けた。
息が上がる。
振り返る余裕はない。
どれだけ走ったのか分からないまま、ようやく足を止めた。
壁に手をつき、荒い呼吸を整える。
「……なんだよ、今の」
かすれた声が漏れる。
「名前を失いかけてる人」
ミヤが答えた。
「さっきの看板と同じ」
恒一は顔を上げる。
「同じって……どういうことだよ」
ミヤは少し考えて答えた。
「消える場所があって、消える人がいる」
それだけだった。
それでも、十分だった。
恒一はゆっくり息を吐いた。
「……やばすぎるだろ」
もう元の場所には戻れない。
そんな予感だけが、はっきりと残っていた。
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