テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!
看板の裏に貼られていた文字が、頭から離れなかった。
離れたはずなのに、白い空白だけが意識の奥に残り続ける。
ーーここにいた人を、忘れないで。
ただの手書きの一文だったはずなのに、妙に重く残っている。歩き出してからも、その言葉だけが意識の奥に引っかかり続けていた。
朝倉恒一は、しばらく何も言えなかった。周囲の音は変わらない。人の流れも、車の音も、いつも通りのはずだ。それなのに、自分だけが別の場所にいるような感覚が消えない。
「……なあ、ミヤ」
隣を歩くミヤは、軽く視線だけを寄越した。
「今のやつ、普通に気持ち悪くないか?」
ミヤは肩をすくめた。
「今さら?」
軽い調子だったが、その一言で済ませられる感じではない。
「今さらだけど、あれは別だろ。触っちゃいけないやつ」
恒一がそう言うと、ミヤは少し考えるように視線を上げた。
「うん。触ったね」
「触ったって何を!」
「消えてる場所」
「だからそれ何なんだよ!」
言いながらも、それを否定しきれない。
あの看板の空白は、”何もない”感じじゃなかった。
何かが抜け落ちている。何かがあったはずの場所が、そのまま削り取られているような感覚。そんな違和感だけが残る。
少し前を歩いていたソウタが足を緩めた。
「見られてる」
振り返りもせず、表情も変えない。
「またかよ……」
恒一は周囲を見まわした。
人はいる。普通に歩いている。誰もこちらを見ていない。
でも、その中に”混ざってる”。
そう思わせる何かがある。
「どこだよ」
視線を走らせたとき、不意に引っかかるものがあった。
人の流れの中に、一つだけ違和感がある。
そこに”いる”のはわかる。
だが、顔が分からない。
輪郭だけがぼやけているように見える。
「……あれ」
恒一の足が止まる。
ミヤも同じ方向を見ている。
「見えてる?」
「ああ……でも、顔が分からない」
自分で言っていても、妙な感覚だった。
見えているのに、認識できない。
ソウタも恒一の横についた。
「それでいい」
「よくねえよ」
その間にも距離が少しずつ縮まる。
歩いているはずなのに、速さが合っていない。滑るように近づいてくる。
「……あれ、人だよな」
「途中だ」
「途中ってなんだよ!」
「消えかけてる」
ソウタが短く切ったその言葉で、背中が冷える。
そして、頭の中で何かが繋がった。
さっきの看板。
消えていた情報。
「……消えるって何が」
横からミヤが答える。
「名前」
一瞬、意味が追いつかない。
「名前?」
「名前が消えると、その人はいなくなる」
軽い調子のまま続ける。
「いやいやいや、軽く言うなよ」
「記録も記憶も全部消えるよ」
内容が重すぎて、返す言葉が出てこない。
そのとき、視線の先の”それ”が、こちらを向いた。
顔は見えない。
それでも、見られていると分かる。体が固まった。
「……やばいだろ」
恒一の声が小さくなった。
黒猫が低く鳴いた。
それでようやく足の感覚が戻る。
「来る」
「いや、わかってる!」
気づいたときには、さっきよりはるかに距離が縮まっている。
人の流れの中を、まっすぐこちらへ来る。
「動け、恒一」
名前を呼ばれた瞬間、体が反応した。
後ろへ下がって、誰かにぶつかった。
でも誰も気にしていない。
「なんで誰も気づかねえんだよ!」
「見えてないから」
ミヤの答えは短い。
”それ”が手を伸ばしてきた。
触れたら終わる、そんな確信だけがある。
「触れさせるな」
ソウタが一歩踏み込む。
一瞬だけ”それ”の動きが止まった。
「今だ!」
ソウタが叫ぶ。
考える余裕はなかった。
全力で走り出す。
恒一たちは人の間を抜けながら、ただひたすら走り続けた。
息が上がる。
振り返る余裕はない。
どれだけ走ったのか分からないまま、ようやく足を止めた。
壁に手をつき、荒い呼吸を整える。
「……なんだよ、今の」
かすれた声が漏れる。
「名前を失いかけてる人」
ミヤが答えた。
「さっきの看板と同じ」
恒一は顔を上げる。
「同じって……どういうことだよ」
ミヤは少し考えて答えた。
「消える場所があって、消える人がいる」
それだけだった。
それでも、十分だった。
恒一はゆっくり息を吐いた。
「……やばすぎるだろ」
もう元の場所には戻れない。
そんな予感だけが、はっきりと残っていた。