テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
あの文字が、頭から離れない。
ーーここにいた人を、忘れないで。
短い一文のはずなのに、思い返すたびに重さが増していく。読み返したわけでもないのに、形までくっきりと残っている。
歩いている。周囲には人がいる。声も聞こえる。景色は変わらない。それなのに、自分だけがその中にうまく重なっていない。
息は落ち着いてきたのに、胸の奥のざわつきだけが消えない。
さっき見たものを頭が理解しようとしているのに、どこかで拒んでいる。顔が分からない人間。そこにいると分かるのに、認識できない存在。
あれが本当に人だったのかどうかさえ、いまは曖昧になる。
朝倉恒一は壁から体を離し、視線をおとしたまま息を吐いた。
「……なあ、ミヤ」
呼びかけると、すぐ横から返ってきた。
「なあに」
「さっきの話」
うまく言葉がまとまらない。
「名前が消えるってやつ」
「うん」
「本気で言ってるのか」
「本気だよ」
間を置かずに返ってきた答えが、逆にずっしりと響く。
冗談であって欲しかった。軽く流されると思っていた。だが、その気配はない。
「じゃあ……」
言葉を選ぶ。
「自分の名前が消えたら、どうなる」
ミヤは少しだけ考えたあと、前を向いたまま答えた。
「いなかったことになる」
それだけだった。
それ以上の説明はない。
だが、それ以上聞く必要もなかった。
さっき見たものを思い出す。顔が分からない存在。そこにいるのに、認識できないもの。
あれが”いなかったことになる”という状態なのだとしたらーー
恒一は体中の息を吐きだした。
そのとき、ポケットの中でスマホが震えた。
反射的に取り出すと着信表示があり、番号も出ている。
だが、その上にあるはずの名前がない。
空白だった。
「……は?」
声が漏れる。
見間違いではない。何度見ても、そこには何もない。
「どうしたの」
ミヤが覗き込んできた。
「これ、名前が出てない」
「登録してないとかじゃなくて?」
「してる」
はっきり言える。見慣れた番号だ。誰からかも分かっていたはずだ。
それなのに、名前だけが抜け落ちている。
恒一は通話ボタンを押した。
「もしもし」
数秒の沈黙。
「もしもし?」
返ってきた声を聴いた瞬間、息が止まった。
知っている声だ。それは分かる。
だが、その先がない。名前が出てこない。顔も浮かばない。
「……誰だ」
自分の口から出た言葉に、背中が冷えた。
「は?何言ってんだよ」
戸惑いが返ってくる。
当然だ。
だが、その反応すらも遠く感じる。
距離がある。まるで知らない誰かと話しているみたいだった。
「いや……誰だっけ」
頭の中を探る。引っかかる。確かに知っている。何度も話したことがある。
それなのに、その中心だけが抜けている。
名前が出てこない。
顔が浮かばない。
”誰か”という輪郭だけが残っている。
「おい、ふざけてんのか?」
声が強くなる。
それでも思い出せない。
焦りだけが増えていく。
「……分からない」
その一言で、通話が切れた。切断音が耳に響く。
画面を見ると、履歴は残っている。
だが、やはり名前は表示されていない。空白のまま。
「……今の、知り合いだったはずなんだ」
自分でも信じられない言葉だった。
「でも、名前が出てこない」
ミヤが黙り込む。
ソウタがこちらを見る。
無言のまま、状況を確認している。
「顔も思い出せない」
言葉にして、理解が追いついてきた。
さっきの看板と同じだ。
そこにあったはずのものが、抜け落ちている。
残っているのは、”あった”という感覚だけ。
「……来てるね」
ミヤが言う。
「何が」
「消える側」
軽い調子のまま言う。
だが、その意味は重い。恒一は息を呑んだ。
頭の中で、自分の名前をなぞる。
朝倉恒一。
「朝倉、恒一」
問題なく言える。
だが、もう一度なぞる。
そのとき、わずかに引っかかる。
ほんの一瞬。
だが確かにあった。
自分の名前なのに、距離がある。
つながるまでに、わずかな遅れがある。
「……今の、なんだ」
自分の名前なのに、どこか他人のものみたいに感じる。
その違和感が、はっきりと恐怖に変わる。
ソウタが口を開いた。
「急ぐぞ」
「どこに」
「名前を残す場所だ」
説明はない。
だが、迷っている余裕はなかった。
恒一はスマホを握りしめる。
画面の空白が、さっきより広がって見える。
自分の名前を、もう一度なぞる。
朝倉恒一。
今はまだ、つながっている。
それがいつ途切れるのか分からないまま、足だけが前へ進んでいた。
コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!