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次の日の夜、昨日と同じ場所へ行くと、
男はまた私に、何か飲むか、と尋ねてきた。
私は恥ずかしそうに笑いながら男の耳元に顔を寄せ、
「それではお冷を。実は、お恥ずかしいながら、私はめっぽう下戸なのです。」
と小声で打ち明けた。
すると男は、前日によかれと思って酒を勧めたことを詫びると、これからは無理をせずなんでも言ってくれと、たくましい歯を見せて笑った。
その表情からは、仁侠者らしい男気と、多くの舎弟から慕われる優しさがにじみ出ていた。
その夜私達は、昨日よりも長いこと語りあった。組織や個人の重要な秘密を除いて、仕事の近況、世間話など、話せることは全て話した。
どれくらい時間が経ったのだろう。おもむろに男が、姿勢をすこし整えると、
「五月女さん。ひとつ頼みがあるんだが…」
と切り出した。
「ええ、どうぞ」
そういって私が男をまっすぐ見つめ返すと、男は珍しく目を泳がせ、しばらくの間黙っていた。
これは仕事の話ではない。直感した私は、ひとりでに口元をほころばせていた。
「よければ今後とも、」
男が再び口を開いたので、私は慌てて男の言葉を遮り、こう提案した。
「待って…!あの、その先を言うのは、少しだけ待っていただきたいの。そのかわり、これはどう?今から二人で、真剣を使って峰打ちの勝負をする。あなたが勝ったら、私があなたの頼みを聞く。私が勝ったら、あなたが私の頼みを聞く。」
男は一瞬、困惑したような表情をみせた。
「もしかして、私の頼みを聞かされるのが怖いの?」
そこで私がいたずらっぽく笑ってそう尋ねると、男は軽く苦笑いをしてから姿勢を正し、
「流石は一流の復讐屋だ。何かあるんだな。だが、きっと俺が勝ったら、この頼み、聞いてくれよ。」
と、私の提案を受けた。
私達は急いで外へ出ると、人目を避けながら男の組の倉庫へ向かった。時刻はすでに深夜2時をまわっている。
中へ入り、シャッターを下ろすと、私達は広い倉庫に、各々刀を構えて向かい合った。
峰打ちとはいえ文字通り、真剣勝負。いわば他流試合のようなものだろうか、二人の間に、先程とは打って変わって、ぴんと張り詰めた空気が流れる。
私が男に目で合図すると、男は両手の白刃を構え、つむじ風のような速さでそれをふるった。
彼のパワー、スピードは、その辺りの極道を全部併せても敵わないほど凄かった。
−この人…やっぱり強いわ。下手したら圭一でも敵わない。
けれど、私とて、プロの殺し屋。体格や腕力の差くらいでは、あっさりと相手に屈したりはしない。
私は左右から飛んでくる彼の刀を、ひらり、ひらりと躱しながら、攻めては引き、引いては攻める。
彼の剣をまともに受けてしまえば、一気に間合いを詰められ、あっという間に捕えられてしまうだろう。身軽さを生かしながら、相手を極限まで焦らし、隙をみせるタイミングを待つ。
それでも彼の忍耐力は並々ではなかった。どんなに焦らしても、いっこうに隙を見せてはこない。それどころか、私のほうが、攻めつつも決定打を仕掛けてこない彼に、もどかしさを隠しきれなくなってしまった。
−でも、そろそろ仕掛けてくれないとつまらないわ…
「ねぇ、そろそろ捕まえてくださる?簡単でしょう?私だって、あなたの頼みを聞きたくないわけじゃないんだから。」
軽く挑発するつもりだったのに、私の言葉を聞いた彼の双剣は驚くほどスピードを上げた。
勢いの増した二本の刀に、私の持つ一本の刀では追いつけないと思った私は、刀を右手だけで握ると、左手で帯の間から扇を抜いた。
この扇には実は細工がしてあり、骨が金属でできている。相手の攻撃を受け止めたり、投げつけることで武器にしたりするためだ。
ガキッ
私は、男の右手から放たれる攻撃を左手の扇で受け止めた。男の剣が扇に食い込み、ほんの一瞬止まる。だが、峰打ちといえど、この男の力に対して私の扇は2秒ともたないだろう。この剣と扇の一瞬止まった所を軸に、私は右手に持っていた刀を、男の肩口めがけて振り下ろした。
ピキィィン…
男が身を躱すと同時に、高い金属音を立てて、火花をちらしながら扇の骨が全て飛び散る。
私はさらに男の元へ踏み込もうとした。
すると男は軽々と私の右側に回り込み、左手の刃で、私の右手を軽く峰打ちにした。同時に右手に持っていた刀を手離すと、自由になった右腕で私の肩をいとも簡単に引き寄せてしまった。
「あっ」
それはほんの一瞬の出来事だった。
-この人、力が強いだけじゃなく、身のこなしまでこんなに速いのね…。
「散々焦らしやがって、生意気な女だ…。」
男はそう言いながらも微笑むと、左手の刀を鞘に収めた。そして私の顎を軽く持ち上げ、息のかかるほど近くに顔を寄せると、
「これで、俺の頼み、聞いてくれるか?」
と囁いた。
先程までの張り詰めた空気がふっと緩む。
私は彼の腕の中で、胸の奥から込み上げてくる嬉しさに頬を赤らめながら、小刻みに何度も頷いた。
枕元の薄暗い明かりのなかで浮き彫りになった彼の身体は、先程の強さを十分に納得させるものだった。加えて両方の手で自由に刀を操るのだから、相当な器用さもうかがえる。
私は左手で、そっと、彼の右肩から背中にかけて、指を這わせた。すると彼は左手で、先程峰打ちにした私の右手の甲を優しく包み込む。
-裏社会にも、こんな人がいたなんて…。
この世界に身を置いて以来、怒り、不安、憎しみそして悲しみでがんじがらめになっていた心を、そのたくましい手は一つ一つ、ほどいていくようだった。
その後も私は、この人と過ごす間の幸せを幾度となく噛みしめた。
そう、あの事件が起こるまでは ―