テラーノベル
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「そうですわよね? お姉さま?」そう言ってレモニカは初秋に相応しい涼し気な笑みを浮かべている。
ソラマリアはその表情を目の端で捉えながらその声を耳の端で聴いていたが、その言葉の意味が中々像を結ばず、古びた硝子窓から見える景色のようにぼやけていた。しかし輪郭が形成された辺りではっと我に返り、レモニカの方へ渋面を向ける。
「その呼び方はやめてくださいと……」
「あら、ですがそれがお母さまの意向でしょう?」今度は妖精のような悪戯っぽく輝く笑みだ。
対称的にソラマリアの顔模様は曇り、しかしながら返す言葉が雨の如く降り出すこともない。
ソラマリアにとって敬愛するライゼン王妃、雷神ヴェガネラの遺志を否定することなどあってはならない。それはソラマリアにとって、新たな人生の地平を拓いた輝き、残りの生を指し示した残光なのだ。しかし王妃が己が子供たちに授けた加護をソラマリアもまた受け取っていたなどという光栄は身に余る。それに主に仕える身が、その主の姉になるなどと、と板挟みにもなっている。
追い詰められた者の表情を見たレモニカも狼狽する。
「ごめんなさい。そう重く受け止めないで」とレモニカは縋るように謝罪する。「軽口が過ぎたわ」
「はい、いいえ。こちらこそ失礼いたしました」ソラマリアは何とか表情と態度を切り替える、取り繕う。「それで、どのようなお話でしょうか?」
「え? ああ、その、グリュエーの魂が偵察から帰ってきて、やはりあれは大王国のようなので、接触すべきかと、という話をしていたのよ」
昼を過ぎた頃、ソラマリアたち一行は傷ついた怪物の背鰭の如きイーヴズ連山を越え、色褪せた血痕のような赤茶けた広い平原に出ると彼方に人だかりのようなものを見つけたのだった。それが大王国の戦士たちだったというわけだ。ソラマリアたちよりも遥かに大所帯であるにも関わらず、その行軍速度は稲妻の如きだ。
ライゼンの戦士たちは騒々しく集り、何やら喧嘩、あるいは決闘をしているようだった。戦士たちが円陣の闘技場を作り、牧畜を追い立てるように囃し立てている。
それよりもソラマリアが気になったのは戦士たちの数が少ないことだ。一部隊にも満たない。一方で屍使いの一族と屍の数は変わらないか微増している。
血生臭い様子に気づくとソラマリアたち一行は足を止めて遠巻きに眺めながら意見を交わす。結果、ソラマリアとユカリだけで大王国の調査隊の元へ向かうことにした。
「私は別に――」とソラマリアは言いかける。
「一人では行かせられませんし、ソラマリアさんとベルを欠いたら残された人は不安になります。脚は引っ張りませんから」とユカリに突っぱねられる。
反論は思い浮かばなかった。
近づいてくるソラマリアたちに最初に気づいたのは屍使いたちだ。戦士たちは円陣の方に意識を奪われており、屍使いたちはそちらにほとんど興味を持たず、各々暇を潰している様子だ。食事をする者もいれば、屍の保全をする者もいる。
そして屍使いの長フシュネアルテがソラマリアたちを出迎える。が、あいかわらず向き合って会話するというには少し遠い距離を保たれる。挨拶をそこそこにフシュネアルテが呆れた様子で疑問を述べる。
「わざわざイーヴズ連山を越えてきたの?」
「ええ、それが近道だ、と」ソラマリアが答える。「どうやって先回りできたのですか?」
フシュネアルテは不思議そうに首を傾げる。その視線はソラマリアたちを遠くから見守るレモニカたちに向けられる。
「別に何も。より速い速度で遠回りしたということね。屈強な戦士たちと疲れを知らない屍よりも持久力があるわけではないのでしょう?」
その通りだと認める他なかった。結局の所、レモニカの足やグリュエーの体力で進行速度は決まる。
「何をしているのか、聞いてもいいですか?」とユカリは戦士たちの喧騒から目を離せずに尋ねる。
ソラマリアとフシュネアルテもそちらに視線を向ける。
「見た方が早いわ。……たぶん」とフシュネアルテは答える。「分かっても、理解はできないかもしれないけど」
戦士たちの円陣の中ではやはり闘いが行われていた。片方は大王国の戦士で、もう一人は焚書官のようだった。そう判断できたのは焚書官の鉄仮面のお陰だったが、返り血を浴びるその青白い肌を、あるいは隆々たる肉体を、見せつけるかのような半裸だった。色濃い火傷や蛇の這った跡のような鞭打ち等、拷問痕と思しき古傷に覆われている。戦士は使い古された長剣、僧兵は歪な刃の幅広の剣で睨み合っている。
「あれは、盲目蜥蜴だな。一目で分かる」
「お知り合いなんですか?」とユカリに聞かれて、ソラマリアは迷いつつも頷く。
「ああ、第五局の、元部下だ。あの肉体に青白い肌、顔にも目立つ傷があったな。とても潜入任務を主とする第五局の僧兵には向いていない、と皆が揶揄っていたものだ」
即席の闘技場に立つネグスロークはまるで見世物のように身振り手振りで相手を挑発したり、円陣を囲む戦士に声を出させるよう煽ったりしていた。それでいて闘いは終始優勢、そしてとうとうライゼンの戦士が叩きのめされた。すぐさま獣じみた野次と壊れた喇叭のような憮然音が飛び交う。
「ふざけるな!」「意気地なしめ!」「洞窟氏族の恥晒しが!」
「良かった。生きてるみたいですね」ユカリが敗者の様子を見つめて呟く。
ユカリの言う通り、戦士は打ち倒されてなお、剣を頼みに立ち上がろうとしている。
そこへフシュネアルテが何人かの屍を引き連れて円陣の中心へと近づき、慣れた手つきで敗者を運び去る。すると再び憮然音が響く。
円陣から運び出された戦士たちは屍使いたちの元へ連れて行かれた。死んでしまえばあの一族の仲間になるのだろうか、とソラマリアは想像する。屍使いたちが面倒そうに敗者たちを介抱しているのが見えた。決して動く屍にするための魔術的処理ではない。
「もしかして闘った者、全員が生きているのですか?」とソラマリアが問う。
「ええ、これはそれに対する憮然音よ」とフシュネアルテは答える。「あの血生臭坊主、どういうつもりか知らないけど、強い上に器用なのよね」
「どういうことですか? 生きてちゃ駄目なんですか?」とユカリが悲し気に聞く。
「土の上に敗者なし、という言葉がある」ソラマリアは久々に思い浮かべた言葉を解説する。「ほとんどの場合、戦いに敗れて生き残るのは恥という意味だ。これは決闘なのだろう。名誉を回復するための闘いで、ライゼンでは、本来どちらかが死ぬまで終わらない」
「もしも私たちが魔導書を横取りしたら?」
「それはつまり決闘への横槍だ。まあ、面倒なことになるだろうな」
ユカリは溜息をつく。「一旦、皆に知らせてきますね」
「ああ、頼む。が、やはりレモニカ様やグリュエーには見せない方が良いだろうな」
去り行くユカリを翠の瞳で見送り、フシュネアルテが呟く。「レモニカ様も生き血を母乳に育つライゼンの女でしょ。過保護じゃない?」
「生き血を母乳にしたりはしませんが、こういうものを見ずに育てられましたし、それはそれとして……」お姉さまと呼んだレモニカの笑顔をソラマリアは思い浮かべた。「フシュネアルテ様も妹君を無闇に傷つけませんよね」
「傷つけろなんて話はしてないけど」
苛立つ声色にソラマリアは頭を下げる。「失礼いたしました。私は、ただ――」
「分かったわよ、言いたいことは。不躾なことを言って悪かったわね。悪かったついでに言えば、臣下の主への想いも想像するしかないのよね、私」
若くして一族を率いる立場になったフシュネアルテの過去を垣間見る。そうしてソラマリアは自身を省みる。上司だったことも部下だったこともあったが、姉であれたことはない。そもそも誰かの家族であったことすら。亡き妹ネドマリアの顔も既に記憶の中でぼやけ始めている。
「姉とはどういうものなのでしょう?」とソラマリアは口を突いて出るが最早引っ込めることは出来ない。
「どうって言われても……。レモニカ様もそんなことを仰っていたわね。姉妹仲がどうとか、あんなふうに問われて困っていたイシュロッテは初めて見たわ」
「ソラマリアではないか! 久しいな!」とようやく気づいたネグスロークが声を張り上げ、円陣の端までやってくる。「本来お前を殺すのが任務なのだ! さあ! 来い!」
「決闘が終わったら呼んでくれ。何人の名誉を傷つけたのか知らんが」
「何を言う! 我々は大王国に騒乱生みし第五局じゃないか! 恨みなどいくらでも買っているだろう! そもそもお前は何故こいつらに殺されずに済んだ!? 処刑台に送られたはずだがなあ!?」
「ヴェガネラ殿下の思し召しだ。じゃあ何か、戦士たち全員が差しで倒されるまで終わらないのか?」とソラマリアが言った途端戦士たちに睨まれる。「もしくは貴様が倒されるか」
「そういうことだ! だが順番なんぞない! お前も決闘者として俺に挑めばいい! さあ来い!」
「私は貴様に名誉を傷つけられた覚えはないし、傷つけた覚えもない」
「俺もお前を売った者の一人だ! 聞いてないのか!?」
「聞いたが、別に恨んでは――」
「これが終わったらまた話すわ。姉とはどういうものか? について」とフシュネアルテは背後から囁き、ユカリたちの元へ向かった。
「いや、私は……。終わったら、ですか」ソラマリアはフシュネアルテからネグスロークへと向き直り、語調を強める。「良いだろう。裏切り者に正当な制裁を与えるため、ネグスローク、貴様に決闘を申し込む」
「受けて立とう!」
ソラマリアも円陣の中央へ迎え入れられる。
「規則は?」
「もちろん、ライゼン決闘法典に準拠する」
「ということは魔法無しか? てっきり魔導書を……」ソラマリアはネグスロークの半裸を繁々と眺める。「まあ、それはないようだ」
「馬鹿を言え。あれは意思を持っているのだから代理人に当たるだろう。当然無しだ」そう言ってネグスロークは円陣の端に置いてあった布切れで血を拭い、服を拾い上げて着る。やはりライゼンの平服だ。
「何故着る。いや、何故脱いでいた。いや、どうでもいいが」
「返り血で汚れるからだ」と答え、ついでにライゼンの戦士たちを嘲るように付け加える。「それに一太刀も浴びる心配はなかったからな」そして戦士たちの恨み節を背に受けながら中央へと戻ってくる。「だが! お前と闘って無傷でいられると思うほど自惚れてはいない! まあ、守りとしては気休めにもならないが」
二人はまるで長年の宿敵と対峙するかのように差し向かいに立ち、剣を構える。ネグスロークの白い肌に汗と血が照り返り、古傷が赤みを帯びている。ソラマリアよりずっと背が高く、横幅もある。だがほんの少しの侮りもない。
「そうだ。ついでに約束しろ。私が勝ったら、どうして私を裏切ったのか、理由を聞かせてくれ」
「そんなもの隠すようなことではない。今教えてやろう。が、俺以外がどう考えていたのかなんて知らんぞ?」
「構わん。他の者もいずれ私のもとに来るのだろう?」
裏を返せば、最早これまでに襲撃してきた第五局焚書官たちの動機は二度と分からないということだ。
「金だ」
ネグスロークの率直な言葉にソラマリアは笑みを零す。
「分かりやすいな。ならば、私を殺せば賞与でも出るのか?」
「ああ、金ではないがな」
「何だ? 恩赦か? 第五局に復帰でもするのか?」
「いや、第五局自体が今、解体の方向で話が進んでいる」
「ああ、それもそうか。気づかなかった。元々人員の少ない部局だものな。私の言えたことではないが。じゃあ、何だ? 何を欲している?」
「一頭地を抜く振舞い首席が設立した第五局の再建だ!」
怒気を帯びた声と共に巨体から繰り出された突きを受け止め、ソラマリアの両足が乾いた土に轍を刻む。
アイリンダという名前にソラマリアは覚えがあった。前任の首席焚書官であり、第五局の初代首席だ。詳しい顛末は聞いていないが、ソラマリアがその後釜だということは聞かされていた。それだけだ。
剣を押し返し、鍔迫り合う。膂力は互角だが、それ故に体格差と体重差がソラマリアを圧し潰さんとする。死刑囚の命を絶つ無慈悲な斧の如く真上から押し付けられる刃を持ち上げようと抗う。が、ソラマリアは圧し負けて膝を折り、尻をつく。
「数年の間に随分鍛えたものだ」
巨体の陰に散る火花に照らされたネグスロークの顔を睨みつけて吐き捨てるように言った。円陣から飛んでくる野次はもうソラマリアには聞こえていなかった。
静寂の中、ネグスロークが笑みを浮かべる。
「片手で受け止めるお前に言われても嫌味にしか聞こえんな、化け物め」
大きく仰け反るソラマリアは左手で剣を握り、右手で地面を支えていた。
「本当のことだ。ネグスローク、昔の貴様なら剣を抜く暇も与えなかった」
「正直で、約束を守る、お前のような人間が損をする」
そしてとうとうネグスロークまでもがソラマリアの上に倒れ込んだ。と同時に、その背中がソラマリアの右腕に刺し貫かれる。心臓の位置にあった腕が引き抜かれ、泉の如く深紅の鮮血が噴き出す。
血に塗れたソラマリアがネグスロークの体を転がして立ち上がっても、辺りは静寂を保っていた。野次は実際に止んでいた。
フシュネアルテの妹イシュロッテがやってきて、念のために脈を測り、瞳孔を確認する。心臓が止まっていることは直接手で触れたソラマリアが最も分かっている。
「おめでとうございます。貴女の勝――」
「イシュロッテ!」とフシュネアルテの悲痛な叫びが静寂を引き裂く。
ネグスロークの遺体が剣を拾い、握り、水平に構えている。が、それは降り抜かれることなく、ソラマリアの剣に右腕ごと切り落とされ、しかし一瞬前まで影も形もなかった新たな剣がネグスロークの左手に握られていた。が、やはりそれも振り上げられることなく、ソラマリアが斬り落とす。
「死者の命令も有効なのか?」とソラマリアが問う。
「いいや」とだけその死体は答えた。
両腕を失ったネグスロークの体は集まってきた屍によって羽交い締めにされ、どこかに貼られていた封印を剥がされた。
遅れ馳せたフシュネアルテがイシュロッテに抱き着く。
「あね様。ご心配をおかけしました」妹は姉を抱きしめ返して囁く。
フシュネアルテは硝子に罅入るような声で諭すように言う。「あんたの死ぬ時が私の死ぬ時よ! 忘れないで!」
「分かっています。分かっています」
イシュロッテたち屍使いがネグスロークを処理している間、フシュネアルテは付かず離れず見守るように佇んでいた。その隣でソラマリアもその様子を眺める。屍使いの魔術のことはとんと分からないが、労力を要することはよく伝わった。
ユカリたちは傷ついたライゼンの戦士たちの元で介抱を手伝っている。最初は人だかりで見えなかったがソラマリアが思っていたよりも随分やられていたらしいと分かる。
「私が姉を自覚したのは妹を亡くした時よ」とフシュネアルテが呟く。「だからイシュロッテだけは絶対に守る。そう決めたの」
「それは……」ソラマリアは言葉を失う。
何を言おうとしたのかも分からない。妹を失い、残された妹のために姉として戦っている。どこか似た境遇のように思えた。
「でも一族の長でもある私は、妹を特別扱いなんてできない。才のある妹だから、そう扱わなくても特別だけどね」
「それが当然です」いつの間にか、フシュネアルテを挟んで反対側にイシュロッテが立っていた。「であればこそ、あね様は素晴らしい方なのです。……であればこそ、私もまたあね様を失った時、あね様を支えられる妹になると志しました」
「姉とはどういうものか、だけど……」その言葉に、ソラマリアがちらりと目を向けるとフシュネアルテが真っすぐに見つめていることに気づき、真正面から受け止めることにした。「難しいわね」
「そう、ですか。その、どのように難しいのですか?」
正直なところ、ソラマリアは自身が分かっていないだけで、当事者にとっては分かり切ったことであり、当たり前の答えがあるのだろうと思っていた。そういう意味では、難しいということ自体が新しい知見ではあるのだが。
「だから難しいって言っているのに……」
「あまりあね様を困らせないでいただけますか?」とイシュロッテの野次が刺さる。
「親子とも違う。夫婦とも違う」フシュネアルテは数えるように呟く。「運命とも、偶然とも違う。そういう関係なのよ。まあ、答えになってないわよね」
「いいえ、参考にさせていただきます」
「姉妹仲だなんて甘っちょろいことを生き血を産湯に使うライゼンの女が気にするものなの?」
「生き血を産湯に使ったりはしませんが、レモニカ様は慈悲深いお方なのです」
「まあいいけどね。ひとのこと言えないし」
そう言って、フシュネアルテはイシュロッテが持っていた何かをもぎ取り、懐から何かを取り出してソラマリアに差し出す。
それは今しがたイシュロッテに凶刃を向け、ソラマリアに食い止められた使い魔の封印と、以前にフシュネアルテが手に入れた嗅ぐ者の封印だ。
「良いのですか?」
「良いわよ。片方は貴女が勝ち取るべきものだし、こっちはお礼。イシュロッテを助けてくれた、ね」
「ですが、ラーガ殿下はお許しになるでしょうか?」
「当たり前でしょう?」そう言ってフシュネアルテは自信たっぷりな笑みを浮かべる。「そういう男に私は惚れたのよ! 運命的にね!」
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