深い闇の底で見たそれは過去であり未来でもある。ユカリにはそれが分かっていた。
ゆかりの手を取って立ち上がり、みどりは膝の砂を払う。少し擦り剥いているが、血は出ていない。
「ゆかりは優しくないよね」とみどりは言った。
「ええ? そうかな? 今、手を貸したばかりじゃない」
「そうだけど、もっと、こう、大丈夫? とか、怪我はない? とか――」
「言って欲しかったの? 私に」
「別にそういうわけじゃない」
「だと思った」とゆかりは声を弾ませて言った。
深奥に潜る直前、ユカリは咄嗟にソラマリアの手を掴んだ。初めて深奥に潜った時は自分の存在さえ曖昧になったからだ。ソラマリアが自身を構築するための――手を握るという物理的な接触が――足掛かりになるかもしれない、とユカリは思ったのだった。
そしてそれは確かに成功したようだった。深奥に顕現する万物の魂のありよう、その風景、古い神殿の、しかし輝くばかりの新鮮な姿を目の前にして、最初に気づいたのはソラマリアの温かな手の感触だった。
「やった! ソラマリアさん、初めてにしては……あれえ!?」
ユカリの握る手はすっぽり隠してしまうほどにとても小さく、そこにいたのは幼い姿のソラマリアだった。顔立ちから推し量るに五、六歳といったところだろうか。
「お姉さん、だあれ?」不安げにユカリを見上げるソラマリアは、しかししっかりとユカリの手を握る。「お母さんはどこお?」
「こういうこともあ……、いた、痛たたたたたたた」ユカリは悲鳴を堪え、辛くも笑顔を作る。「ソラマリアちゃん。ちょっと手の力を緩めてくれるかな?」
痛みを感じない程度には緩めてくれたが、全力で抵抗しても外せそうにない強さで手を握られている。
「ソラマリアさんはこんな感じなんだね」とベルニージュがユカリたちの背後で呟いた。
相変わらず深奥でのベルニージュは眩い炎に包まれた姿で、少しは健康的な顔色と体形に見えた。
「どういうこと? ソラマリアさんの魂は子供なの?」
「そういう訳じゃなくて、中心核のようなものじゃないかな? ユカリだって、最初からその姿ではなかったんでしょ?」
そういえば、と自分の姿を見る。ラミスカと魔法少女ユカリを混ぜ合わせたような姿だ。
「最初の私は心しかなかったんだけど……」
「無いんじゃなくて、深奥全体に遍在しているというか……」ベルニージュはユカリの顔を見て話しを変える。「とにかく説明は後で、ソラマリアさんの面倒はワタシが見るから、ユカリはしばらくどこかに行ってて」
「なん――」ユカリが言いかけた言葉をベルニージュは遮るように続ける。
「かわる者が追ってくるとしたらユカリとの縁をたどってくるはずだからだよ。さあ、行った行った。あまり深い方に行っちゃ駄目だよ」
ユカリが想像の足を伸ばして浅い方へと移動するとソラマリアの手が空気になったかのように擦り抜ける。そして遠ざかるベルニージュとソラマリアは霧のように薄らいで消え、逆に深奥の外の人々が滲み出るように朧げな姿を現す。
魔法少女に変身したかわる者と目が合う。とほぼ同時にユカリと深度を合わせてきた。
「その姿、何?」かわる者はユカリを睨みつけて言う。
「私にも分からない。魔法少女の力を表しているのかなって思ってるけど」
かわる者は右手に杖を左手に魔法少女の魔導書を持っている。ユカリの変身と違って魔導書留めは無いようだ。
沈黙するかわる者にユカリは問いかける。「もしかして魔法少女の、変身したり、杖に触れたものを呑み込む魔法って……」
「……そういうこと。深奥に出し入れしているってわけ。【会話】や【憑依】もその応用だよ」
何をどう応用すればそうなるのかユカリには想像がつかなかった。
「じゃあ魔導書無しでもこの魔法少女の魔法は使えるかもしれないね」
「そんな訳ないでしょ?」かわる者は嘲るような呆れるような表情を浮かべる。「魔導書がどれほど突出した存在か、知らない訳じゃないよね?」
「でも人造魔導書が作られているし、それに、そう、封印だって再現できるかもしれない。そしたら魔導書を封印しても、君たちは別の方法で顕現できるってことじゃない?」
かわる者が心底可笑しそうに笑う。
「この世に災いをもたらすから魔法少女は魔導書を封印してるんじゃないの? 魔導書と同等の力を増やすわけ? それって本末転倒じゃない?」
「それは、そうだけど……。でも、その為に誰かを犠牲にしたら、私にとってはそれこそ本末転倒だよ。魔導書に苦しめられてきたのは君たちも同じなんでしょ?」
かわる者はユカリの言葉を打ち据えるかのように両手で握った杖を素振りする。
「そもそも人造魔導書を作るのはあのベルニージュとかいう魔法使いでしょ? ラミスカはいらないよね」
何が何でも白紙文書が欲しいらしい。これさえ遠ざけておけば、百一の使い魔が勢ぞろいしても完成してしまう心配はないからだろう。
「魔法少女の力がなくたって、私、深奥を移動するのは得意だから」
ユカリは神殿の方へと走りつつ、同時にさらに深い方へと潜る。何とか隙をついてかわる者の封印を剥がすか『我が奥義書』を取り戻さなくてはならない。縦横高さ深さ縁の全てを駆使して翻弄するのだ。
読み通り、深く潜るほど、神殿が再生されていく。失われた銀の屋根が葺かれ、基礎部分しか残っていなかった周囲の建築物が姿を現す。青を基調にしつつも全体としては暖色に彩られた華やかな景色だ。壁には空や太陽、鳥や雲、それに翼持つ人々が抽象的に描かれている。これが在りし日の姿であり、古くなった神殿遺跡の朽ちることのない魂の姿なのだ。
深奥にいるユカリの周りには無数の蝶が漂っている。意識しなければ存在の曖昧なそれらは、ユカリと誰かとの縁なのだが、どれがかわる者と繋がっているのかは直ぐには分からない。縁の深い者ほどはっきり見える蝶の数は以前と変わっていないように思える。とするとかわる者との縁はまだそれほど深くないということだろうか。
少なくともあちらから縁をたどられる可能性も低いということだ、とユカリが考えた瞬間、杖を振り上げたかわる者が頭上に現れ、ユカリは咄嗟に飛び退いた。振り下ろされた杖は床を打ち、まるで鐘でもついたかのように荘厳な音色として反響する。
「どうして見つけられたの?」
「私の方が視界が広いってことだよ」
同時にかわる者が大きく息を吸い込んだ。生物が相手ならば何者にも拒ませない【憑依】の魔法だ。ユカリは背後に、そして浅い方向に距離を取ろうとしたが、吹きかけられたかわる者の息吹に捉えられた。魔法少女の【憑依】の魔法をかけられるのは初めてだ。何か有無を言わさない力がユカリの皮膚から浸食し、魂の内に入り込み、満ちていくのを感じる。
「やっぱり、何の力もない。当然だよ。魔法少女の力を勝手に使っていただけなんだから」
かわる者の言葉が内から響いてくるように聞こえた。
何もかも上手だ。魔法少女の力が無ければこんなものなのだ。結局の所、魔法少女の力がガレイン大陸の南の果ての田舎娘を北の果てまで導いたということだ。
悔しさだけが心の内を埋め尽くすのを感じたユカリだが、しかし、それで終わらないこともまた感じ取った。まるで負ける気がしない。この旅がこんな所で終わる訳がない。その確信が、まるで発条を抑え込むようにユカリの魂を圧縮し、自信を漲らせ、気が付けば【笑いが弾けていた】。
魔法少女の可憐な衣と機能美を持つ狩り装束とが合わさったような魂の輝きが雨滴のように弾け飛び、柔らかな絹の旋毛から滑らかな陶器の手足の指先までが一点に凝縮し、ますます魂の光を放射する。多重の陰影を伴っていた桃色の髪が瑞々しさを取り戻し、星無き深奥の空に現れた黄金の五芒星が髪を飾る。
深奥に有り触れた魂の光のどれよりも深く煌めく濃紫の糸が薄桃の衣を織り上げ、魔法少女の魂を装束に飾り立てる。喜び勇む縁飾を伴い、静かに影編む綾織を纏う。陽光から梳き出したが如き金糸は魔術の深淵を描くように幾何学模様の刺繍を施す。飾紐は弾むようにして丸みを帯びた靴を導き、両足を揃えて地を踏めば、刻印と共に卓越した魔法の存在感を拡散させる。隅々まで意志を行き渡らせた指に久しい感触の杖が親し気な仔犬のように吸い付き、反撃の合図のように紫水晶が強く煌めいた。
かわる者は驚愕の表情のまま凍り付いた。しかしかわる者の意識は確かに主の元に戻っているはずだ。ユカリを戒めかけた【憑依】の魔法は解かれているのだから。
その隙にユカリはかわる者に抱き着く。かわる者は小さな悲鳴をあげたが、抵抗せず、その隙にユカリはかわる者の全てを弄って、どこにあるか分からなかった封印を探り当て、一気に剥がす。その札は万能樹の種の形で微笑みを浮かべた魔法少女が描かれていた。
ユカリとかわる者の目が合う。既にそこには誰もいないはずのかわる者の瞳には確かに意思が宿っていた。
かわる者はユカリの方に手をかざし、同時に姿を変じさせる。その変化が視界に入るとユカリは眩暈を覚えた。何かを仕掛けられた。そして確かに指の間に挟んでいた封印を奪い返されたのを感じた。
どれくらいの時間が経ったのか分からないが、眩暈が消えた時、かわる者の姿も消えていた。
ユカリは慌てて浅い方へ、深奥の外へと急ぐ。時間はほとんど経過していないらしい。ユカリに従う使い魔とかわる者に従う使い魔と焚書官たちが争い合っている。見ようによっては演劇のようだ。それも、旅芸人の一座をいくつも集結させて、一つの劇を披露させたかのような混沌だ。劇的な泣き声や戦闘を盛り上げるかのような音楽が聞こえる。上手ではよく躾けられた猛禽が飛び交い、獣が跋扈し、物々しい処刑具の小道具が散乱している。下手では統一感のない武具を用いて暴れまわる戦士や場違いならぬ、場面を間違えたかのような服装の役者たちが逃げ回ったり、物を投げたりしている。しかし、何より、混沌は、筆舌に尽くし難い何かとの繋がりを生み出してしまう。彼方からの視線、死角からの吐息、暗闇からの囁き。注意を向ければ、きっと、以前と同じではいられなくなる、そういう存在の気配が顕れるのだ。だからこそ混沌は深奥を隔てる壁を薄くさせるのだろう。
そして騒乱の中、ユカリの目の前で、本性の姿に変身した使い魔、白い翼と犬の足が生えた魚がかわる者の封印を首席焚書官アンソルーペに貼り付けるところだった。
つまりかわる者には、その封印とは別の使い魔の封印も貼ってあったのだ。一枚上手を取られ、悔しがるユカリの前でアンソルーペの体を手に入れたかわる者は魔法少女に変身し、杖に跨って飛び去った。
追いかけるかどうか迷ったが、まずは争いを収めるのが先決だろう。ユカリは久々に使い魔たち魔導書の気配を感じ取れることに気づき、改めて『我が奥義書』無しに魔法少女に変身したことを実感する。
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