「尽くん、それ、本気で言ってるの?」
天莉の戸惑いに揺れる瞳を見つめて、尽がひざの上で丸くなった愛猫オレオの喉元を指先でくすぐりながら、「ああ、本気だよ」と眼鏡の奥の瞳をふっと細めた。
***
尽と直樹の、『株式会社ミライ』の退社――と言うより『アスマモル薬品工業』への復帰が発表されたのは、ミライに新しい営業部長と、総務課長が就任して割とすぐのことだった。
尽の退任と同時に彼の後を引き継ぐ常務取締役も発表されたのだけれど。
尽の後任者は元々ミライで同職に就いていた枝本十勝という男で、尽と入れ替わる形で一時的にアスマモルの方へ交換出向していた人物だった。
「尽くんがいなくなったあと……。枝本さんが帰っていらっしゃるんですね」
天莉の言葉に、尽がうなずいて。
「今回の不祥事については、枝本常務も責任を感じてくださってね。一年ちょっと前、俺がミライに入り込み易いように色々手を貸してくださったんだ」
天莉が入社してすぐの頃から約四年間。
尽がミライへ来る前に常務をしていた枝本は、五十代前半のとても人望の厚い人物だったと記憶している。
もちろんかつての尽同様、天莉とはほとんど接点のない雲上人だったけれど、社内での評判はかなり良くて。
枝本がアスマモルへ出向することになったと決定した時、惜しむ声があちこちから漏れ聞こえて来たのを天莉も覚えていた。
(後任の尽くんが余りにもハンサムで……そのうえ優秀だったからすぐにその噂は落ち着いちゃったんだけど)
尽がミライに来た時のことは天莉の記憶にも新しい。
(考えてみたら尽くん、江根見さんとほぼ同期みたいな感じだったんだよね)
紗英が父親から聞いていたかどうかは定かではないけれど、尽がミライへ来たのは、紗英が新入社員として天莉のいる管理本部総務課へ配属されるより二ヶ月くらい前だったはずだ。
異例の時期に、突然重役の人事異動が行われたことに、社内が少なからず騒然したのを覚えている。
あれは本当に奇妙な辞令だった。
その全てが今回の件――試薬の情報漏洩問題の収拾を背景にしていたのだと思えば、色々と合点がいった気がした天莉だ。
それはそれとして。
***
尽と直樹が退任して、ミライを去ると知って寂しさを覚えた天莉に、尽が言ったのだ。
――「天莉も一緒にアスマモルへ行かないか?」と。
それで冒頭の天莉のセリフ、「尽くん、それ、本気で言ってるの?」に戻るわけだが、尽は本気だと断言して。
なおかつ返事を急かすように「あとはキミが『はい』と言うだけだよ、天莉」と言い募ってきた。
「で、でも私……」
ミライでは総務課で雑用係のようなことをしていた天莉だ。
そんな天莉に尽が告げた移動先は現職と同じ総務職ではなく、秘書課への異動で。
「秘書検定資格はおろか、そういう勉強をしてきたことさえないのに? いくら何でも無謀だよ」
オロオロと告げたら、尽がニヤリと笑って「奇遇だな、天莉。実は直樹も元々は全くのど素人なんだ」と言いながらオレオを床へ下ろした。
「えっ」
ニャーニャーと抗議の声を上げながら足元へ取り縋るオレオをたくみに避けながら、尽が天莉の方へ近付いて。
そのまま真横に立って天莉の手を握ると、「俺はアスマモルへ戻ったら父の補佐をする形で副社長へ就任することが決まっている。もちろん直樹が引き続きそんな俺を秘書として支えてくれることになってはいるが、それだけじゃ頑張れる気がしないんだ。――俺はね、天莉。愛するキミにもそばにいて欲しいんだよ」と熱のこもった眼差しを向けてきた。
「でも……」
「天莉は俺と離れ離れになっても平気なの?」
至極真剣な問いかけなのに、二人の足元でオレオが必死にニャーニャー言っているのが気になって仕方のない天莉だ。
「平気じゃ……ない、けど」
「けど?」
天莉にだって、五年間もお世話になってきた株式会社ミライへの義理と恩義がある。
オレオを抱き上げながらそう言ったら、「その点は問題ない」と一蹴されて。
どういう意味だろう?とすぐそばに立つ尽を見上げたら、「ミライの社長からはすでに承諾済みなんだ」とか。
「えっ」
さっきから「えっ」と何度つぶやいたことだろう。
そこでふと、天莉は尽と一緒にアパートの解約に行った日のことを思い出した。
二年間の契約期間を更新したばかりだったこともあり、違約金との兼ね合いで敷金礼金はほぼ返ってこないと言われたのだけれど。
尽は天莉の返事を聞く前に「問題ありません」と即答してしまったのだ。
天莉が「や、ちょっと待って、尽くん」と戸惑いに瞳を揺らせたら、「天莉。オレオもお迎えしたと言うのに……。キミはもしかして二重生活を続けるつもりなの?」と眉根を寄せられて。
天莉が言葉に詰まっているうちに、半ば強引に解約を押し切られてしまったのだ。
もちろん、尽のマンションに住むようになってからと言うもの、アパートへ戻ることはなくなっていたし、家賃を払うことをもったいないかな?とは思っていたのだけれど。
(お金のこともあるし……もう少し迷わせてくれても良かったんじゃないのかな?)
天莉がほんのちょっぴりそんな不満を抱いたのくらいは許して欲しい。
尽には、時折性急にことを運び過ぎて強引な面が見え隠れすることがある。
直樹が一緒にいたならば、恐らく『玉木さんの意見も聞かずに勝手なことをなさるのは感心致しかねます』と諌められるところなんだろう。
だが頼みの綱の直樹も、天莉と過ごすプライベートは二人きりになれるよう遠慮してくれることが増えたから。
ちょいちょいそういう弊害が出ていたりする。
(私がハッキリ言わないのがいけないんだろうけど)
どうしても尽に「ダメ?」と大型犬みたいな甘えた目で見つめられると「ダメ、じゃ……ない」とついあけて通してしまうのだ。
そんなこんなで住む場所――というか退路を断たれてしまった天莉には、尽と同棲を続ける道しか残されていないのだけれど。
今回の、親会社への移籍の件に関しても「ハイかイエスかうんで答えてね?」みたいな感じで、元より天莉には「NO」と答える未来は残されていなかったように思う。
「尽くんの策士……」
ポツンと拗ねたようにつぶやいたら「今更分かったの?」とクスクス笑われた。
***
リビングで話していたら、オレオが尽の気を惹こうと必死の形相でニャーニャー鳴きながら二人の間に割り込もうとしてくるから。
しゃがみ込んでそんなオレオを撫でながら尽が苦笑まじり、「のんびり話せる場所に移動しようか?」と問い掛けてきた。
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