「では、常春《つねはる》様は、春康《はるやす》様の所へお行きなさい」
「あ、あ、あの、ですが、紗奈《さな》が!あの調子だと、無茶しそうだし!」
常春様、と、橘が、柔らかな口調で、呼びかけて来る。
「紗奈を気遣う気持ち、いえ、理由は、良く分かりますよ。腹違いの兄妹《きょうだい》で、おまけに、紗奈は、後添えではありますが、正妻の子。あなたは、兄とはいえ、妾の子。仲違い、いえ、揉め事にならないよう、本当に、あなたときたら、子供の頃から、気を使って、紗奈を可愛がり……、全く、やり過ぎるほどの几帳面な性格を見せて……」
橘に、痛いところを突かれ、常春は、顔を、つい、しかめた。
確かに、橘の言うとおりだった。
もちろん、里の、屋敷も、紗奈の母、正妻である北の方も、誰も、常春の事を邪険にはしておらず、逆に、橘同様、そこまで気を使わなくともと、事あるごとに、言ってくれていた。
しかし、身分、立場、というものが、崩れてしまえば、屋敷の中は、たちまちに、嫌悪感漂い、腹違い通しの兄弟の、足の引っ張っ張り合いに行き着く。
家督を継ぐ嫡男は、亡くられた正妻の子。正妻の子が、屋敷を継ぐ、事になっているが、後は、側室、妾、と、正妻意外の子供ばかり、だった。
そして、紗奈が、後添えの正妻の子として生まれた。男子でなくて、良かったと口にする、家督争いを危惧した、縁者の大人達の姿を見て、常春は、立場、いや、序列というものは、恐ろしいものだと、痛感したのだ。
それを、決して崩してはならない。自分の身にも、さらには、紗奈の身にも、災いが降りかかると、常春は、気を配った。
事実、兄でありながら、常春は、出目の低さから、紗奈よりも、本来は、位が下だった。そして、上の兄弟達の中には、正妻の子、というだけで、紗奈を疎む者もいた。
言葉に出来ない不穏を感じ取った常春は、紗奈共々、行儀見習いをと、申し出る。
この願いは、波乱を呼んだ。常春のみではなく、紗奈も、なのだから。
幸いな事に、守近の屋敷から声が、かかり、羽林家に繋がりを持てると、多少なり目がくらんだ、父は、常春と、紗奈を都へ、送りだしたのだった。
「あら、まあ、色々思いだし、気が緩みましたか?べそをかきそうな顔になっていますよ?」
「あっ、いえ、そんな……」
晴康《はるやす》が言った通り、橘には、全てお見逃し。勝てっこないや、と、常春は、思う。
「さあ、火の始末は、女の役目、安心して、晴康様の所へお行きなさい」
橘は、にこりと笑うと、常春の背を押した。
が──、
「あ!お待ちを!!」
と、何やら、思いだしたかのように、急に板土間にかけ上がると、隅に置く、葛籠《つづら》から、掛布を数枚取り出した。
「これをお使いなさい。これに必要な書き付けを包んで、室へ、移すのです」
仕舞われている、唐櫃《からびつ》事、移動させるのは、至難の技。また、それを室の穴に埋めるとなると、一苦労。
そう橘は、言いたいらしく、とっさに思いついた、自分達の夜具《かけふ》を、取り出して来たようだった。
「すこし、牛臭かったり、なんだか、男臭かったり、もう、何がなんだかの、匂いが、染み付いておりますが、今は、非常事態ですから」
差し出された、掛布を受けとり、常春は、はい、と、元気よく、答えると、晴康の居る塗籠《ぬりごめ》へと向かった。
常春を見送った橘は、水瓶へ、駆け寄り、
「新《あらた》殿、聞こえますか!!私、策を、思いつきました!」
と、あちら側へ、声をかけた。
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