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翌朝
微睡みの中で意識が浮上すると
まず感じたのは尊さんの温かい腕に包まれているという確かな感触だった。
夜の闇が明け
窓から差し込む柔らかな朝陽が部屋の隅々を淡く照らし始めている。
その光の中で、規則正しい
深く穏やかな寝息がすぐ耳元で心地よく響き
彼の大きな体温が背中からじんわりと、まるで染み渡るように伝わってくる。
その温かさは、昨夜の甘く激しい情事の余韻を、まだ鮮明に体に刻みつけていた。
特に敏感になった後孔のあたりには
ひくつくような微かな疼きがまるで遠い雷鳴のように体の奥底で響き
甘美な記憶を呼び覚ます。
それは痛みではなく、むしろ快感の残り香であり
蜜に漬けられたかのような、とろけるような幸福感に全身が満たされていくのを感じた。
このまま時間が止まってしまえばいいのにと
切なく、そして深く願った。
尊さんの温もりに溶けてしまいたい
彼の肌の匂いをこのまま吸い込んでしまいたいという抗いがたい衝動に駆られるが
現実は無情にもその甘い夢を打ち破る。
会社では、俺たちはあくまで上司と部下。
その厳然たる事実は、この熱を帯びた秘密の関係が、誰にも知られてはならないという重い枷を課していた。
この甘い密着が、日中の冷徹なビジネスの顔とどれほどかけ離れているかと思うと
胸の奥が締め付けられるようだった。
そんなことを考えていると、尊さんもどうやら目を覚ましたようだった。
ゆっくりと、しかし名残惜しむように腕を緩める気配がする。
そのわずかな動きにも、別れを惜しむような彼の気持ちが伝わってきて
さらに胸が締め付けられた。
俺がそっと体を反転させて彼の方を向くと、彼の目が優しく細められた。
朝日に照らされた彼の横顔は、昨夜の情熱的な
欲望にまみれた表情とはまた違い、穏やかで
しかしどこか色気を帯びていた。
「…おはよう、雪白」
その視線が俺の頬を撫でるように滑り、わずかに熱を帯びた。
彼の低い声が、いつもよりずっと甘く
そして耳に心地よく響いた。
その声は、まるで温かい毛布のように俺を包み込み
まだ夢の中にいるような錯覚を覚えさせる。
「…おっ、おはようございます、尊さん」
声に出して呼ぶ彼の名前が、いつもよりずっと甘く響いた気すらした。
その響きは、昨夜の情事の中で何度も交わされた甘い囁きを思い出させ
俺の心臓を静かに、しかし確実に高鳴らせた。
ベッドの中でしばらく見つめ合った後
尊さんがふと、俺の髪をくしゃりと撫でる。
その指先が頭皮に触れる感触は、まるで電流が走るように心地よく
もっと触れていてほしいと願ってしまう。
「そろそろ起きるか。遅れるとまずい」
その言葉は、まるで魔法が解ける合図のようだった。
一瞬にして現実へと引き戻され、胸の奥がきゅっと締め付けられるような切ない感覚が押し寄せる。
この幸せな時間を、もう少しだけ
ほんの少しだけでも引き延ばしたい。
そう願う気持ちと、それが叶わないことを痛いほど理解している現実との間で、心が揺れ動いた。
渋々、温かいベッドから抜け出して身支度を始めた。
肌に触れる朝の冷気が、昨夜の熱を冷ましていくようで、少しだけ寂しさを覚える。
尊さんも隣で、慣れた手つきで着替え始める。
昨夜の開放的な、無防備な姿とは打って変わって
きっちりとしたスーツを身につけ、ネクタイを締める彼の姿を見ると
昨夜の甘い時間はまるで夢だったかのように思えてくる。
そのギャップに、胸の奥がチクリと痛んだ。
「じゃあ、俺は先に行ってるからな」
尊さんがそう言って、俺の額に軽くキスを落とした。
その一瞬の触れ合いが、秘密の絆を再確認させてくれるようで、胸の奥に温かい火が灯る。
ほんの短いキスだったけれど、その唇の感触は
昨夜の激しいキスの名残を鮮やかに思い起こさせた。
彼の唇が離れると、その場所がじんわりと熱を持ち、彼の体温がまだ残っているようだった。
「はい…!また会社で」
彼が部屋を出ていくのを見送ってから、俺も少し間を置いて家を出た。
同じ家から、別々の時間に出勤する。
まるで秘密の恋人たちのようだ、と
そのいじらしい状況に、少しだけ胸が高鳴った。
同時に、この秘密がいつかバレてしまうのではないかという漠然とした不安もよぎる。
この甘い蜜のような関係が、いつか苦い毒に変わってしまうのではないかという恐れが
胸の片隅に影を落とした。
会社に着くと、そこにはいつもの日常が広がっていた。
喧騒と活気に満ちたオフィスは、昨夜の密やかな空間とはまるで別世界だ。
尊さんはすでに自分の席で、いつものように冷静な顔で仕事に取り掛かっている。
その背中からは、昨夜の甘い面影は微塵も感じられず
ただ有能な上司としてのオーラを放っていた。
俺も自分のデスクに向かい、パソコンを立ち上げた。
周りの同僚たちに、昨夜の甘い出来事が悟られないよう、いつも以上に平静を装う。
顔色一つ変えず、淡々と業務をこなすふりをした。
尊さんと目が合いそうになるたびに、心臓が跳ね上がり、慌てて視線を逸らしたり
手元の書類に目を落としたりした。
まるで、隠し事をしている子供のように視線が泳いでしまう。
昨夜の彼の熱い吐息や、快感に喘いだ自分の声がまるで幻聴のように耳の奥で響く。
その度に、顔が熱くなるのを必死で抑え込んだ。
頬の火照りを悟られないよう意識的に表情筋を緩め、何食わぬ顔でキーボードを叩く。
しかし、指先が触れるキーボードの感触も
ディスプレイに映る文字もどこか現実感がなく
俺の意識はまだ、尊さんの腕の中に残されたままだった。
◆◇◆◇
その日の昼休み
午前中の業務が終わりを告げ、時計の針は正午を指していた。
いつもなら、この時間になるとフロアのあちこちから同僚たちの声が聞こえ始め
自然と連れ立って社員食堂へと向かうのが常だった。
しかし、今日は違った。
急に襲いかかってきた強烈な尿意に、俺は思わず股間を抑え
一目散にトイレへと駆け込んだのだ。
個室に飛び込み、ようやく我慢していたものを全て出し切ると
ふぅ、と深く一呼吸つく。
全身から力が抜け、安堵のため息が漏れた。
手洗い場へと移動し、冷たい水で手を洗う。
鏡に映る自分の顔を覗き込み、少し乱れた前髪を指で整え
ネクタイの結び目を締め直す。
身だしなみを完璧に整え終え、ようやくデスクへと戻った。
だが、俺のデスク周辺には、もう誰の姿もなかった。
「みんな、もう食べに行ったのか……」
ぽつりと呟き、少し寂しさを感じながらも
ふと尊さんのデスクに目をやった。
そこにも尊さんの姿はない。
(尊さんも、もうお昼行っちゃったのかな)
ほんのちょっぴり、胸の奥がきゅっと締め付けられるような寂しさを覚える。
仕方ない、俺も一人で社員食堂にでも向かうか……
そう思い、立ち上がろうとした
その時だった。
ガラッと、オフィスフロアの扉が音を立てて開き
尊さんが入ってきた。
「あ、主任!もうお昼済まされたんですか……?」
思わず声をかけると、尊さんは無表情のまま
しかし確かな足取りで俺に近付いてくる。
「いや、まだだ」
簡潔な返事の後に、尊さんの口から予想外の言葉が飛び出した。
「お前もまだなら、外に食いに行かないか?」
「え?!行きたいです……!」
内心の喜びが爆発しそうになるのを必死で抑え
声のトーンをあからさまにならないように低めに保ったつもりだったが
それでも返事は弾んでしまった。
まさか、こんな風に尊さんと二人きりでお昼を共にする機会が訪れるとは夢にも思っていなかったのだ。
その驚きと嬉しさに、俺は心の底からの歓喜を隠しきれず即答してしまっていた。
俺の返事を聞いた尊さんは、ほんの一瞬
口角を微かに上げた。
その表情は、普段の無表情からは想像もできないほど、俺の心を揺さぶった。
「よし、じゃあ行くか」
尊さんはそう言うと、くるりと背を向けた。
俺は慌ててデスクに置いていたスマホと財布を掴み、その広い背中を追いかけるようにしてオフィスを出た。
会社周辺を歩くこと5分ほど。
賑やかなオフィス街の喧騒から少し離れた路地裏に、こぢんまりとした定食屋が佇んでいた。
年季の入った木製の引き戸と、どこか懐かしい雰囲気の暖簾が印象的だ。
店内は昔ながらの定食屋といった風情で
昼時にもかかわらず客はまばらにしかおらず、静かな時間が流れていた。
二人掛けのテーブル席に並んで座り、俺たちは差し出されたお品書きに目を落とした。
手書きの文字で書かれたメニューは、どれも素朴で温かみを感じさせるものばかりだ。
結局、俺たちが選んだのは、お互いに日替わり定食だった。
俺はふっくらと焼き上げられた鮭の西京焼きをメインとした定食と、温かい味噌汁を注文。
尊さんは、香ばしい焼き魚定食を選び、二人とも飲み物として熱いほうじ茶をつけた。
注文の品が運ばれてくると、湯気が立ち上る定食を前に
俺は自然と「いただきます」と手を合わせた。
尊さんもそれに倣うように静かに手を合わせ、いただきますと呟いて早速食べ始める。
尊さんとこうして向かい合って食事をするのは、何気に初めてのことだ。
以前の俺なら、恐れ多くて一緒の食事なんて考えられなかっただろう。
しかし、今は恋人同士なのだということを意識してしまうと
なんだか胸の奥がざわつき、妙に緊張してしまって、箸を持つ手がぎこちなくなる。
だが、目の前の尊さんは相変わらずの無表情で
ただ静かに焼き魚定食を食べている。
その落ち着いた様子とは対照的に、俺だけがやけにソワソワしてしまうのが少し恥ずかしい。
それでも、こうして尊さんと一緒に外でご飯を食べているという事実だけで
俺の胸は温かいものでいっぱいになった。
だから、ぽろっと――
本当に、心の底から、ぽろっとこぼれてしまったのだ。
「……なんか、デートみたいですね」
その瞬間、尊さんが箸を止め
ゆっくりと目線を上げてきた。
その視線は、俺の顔をまっすぐに捉える。
「……俺はデートのつもりだが?」
尊さんの予想外の、そしてあまりにもストレートな言葉に、俺の心臓は激しく跳ね上がった。
ドクン、ドクンと耳の奥で自分の鼓動が聞こえるようだ。
「そっ、そうなん、ですね……」